神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

「見合い」はドラマチック

 昨日11月6日は「縁結びの日」だったそうで……そのネタで……

 

 今から14年前の2006年、ちょうど“広島発ヒロインアクションムービー”シリーズの制作が始まる直前に、『AGAPE』という作品を公開した。物語は以下の通り。

 

 主人公の高校教師は突然不治の病を宣告される。死への恐怖と孤独感に苛まれ思い余った彼は、あろう事か結婚情報サービスの会員に登録してしまう。残りの少ない人生を、その場つなぎの恋愛で紛らわせようという魂胆だ。そんな彼の彼の思惑を知ってか知らずか、度重なる見合いはことごとく失敗。そんなある日、とある女性を紹介され思いがけない恋愛が始まった。彼の実情も知らずに彼女の感情は高まり、その恋愛が成就し始めた矢先、彼の心に意外な葛藤が巻き起こる。 

 

 

 この物語の根幹にあるのは「愛すればこそ別れなければならない、愛のパラドックス」というものである。実際に不治の病を宣告されたら人は何を考えるのか、テーマにいささか変化球気味のストーリーが展開していくが、結局はメロドラマとして完結する内容で、制作当時はいささか陳腐な物語だったか知れなかったが、その後“韓流映画”ブームが席巻し、『秋の童話』『冬のソナタ』といった、往年の70年代大映ドラマ『赤い』シリーズを彷彿させるベタなメロドラマがもてはやされるようになったので、そんな時勢に乗れば、結構受けるんじゃないか、って公開当時は期待したものだった。まあ、そんなにうまくことは運ばなかったけどね(;^_^A

 

 そんな『AGAPE』だけど、悲運のメロドラマの体裁を持ちながら、オチを含め実は随所にコメディーの要素も備えていて、中でも主人公が見合いで悉く成就しないシーンは、彼と相手の女性とのすれ違いをユーモラスに描いてみた。今まで全く設定のなかった者同士が、いきなり「結婚」という人生を左右する大きな決断を腐るべく会うわけだから、それ自体壮大な物語であり、且つ傍から見れば実に興味深い行為だ。お互いの価値観を小出し小出しにしながら必死になって相手の正体を伺ったり、そこはかとなく裏で”値踏み”したりする見合いの場面は、無垢な恋愛以上にドラマチックだ。だから失敗すればするほど、観る側はやきもきし、それ故その先にある成就に大いなるカタルシスを覚えることが出来るものではないだろうか本作ではそんな線も狙って演出してみた。

 

 

 同じく「見合い」をテーマを全編広島でロケされた劇場映画に、金子修介監督の『こいのわ 婚活クルージング』という作品がある。本作もやはりベースはコメディーで、主人公の高齢な富豪(元社長)が、”終活”もかねての婚活に勤しみ、様々な観亜相手との葛藤の果てに、一度は反目し合った相手と紆余曲折を経て結ばれる、という物語を、一切辛気臭くなく描いた、古くて新しい物語だった。このように「見合い」は実にドラマ・映画向きなテーマ故、今後もいろんな形で「見合い」が物語世界で取り上げられるようになったらいいと思う。まあ、その前に、若者が安心して「見合い」出来るような、生活面が安定した社会の実現を目指す方が先なんだけどね。

杉浦幸も『ヤヌスの鏡』も健在なり!

 「大喰い」「激辛喰い」の番組には何故か惹かれる。勿論、この手の番組ってそもそも大切であるべき「糧」を“苦行”のように粗末に食い散らかす、という点では、本来言語道断な番組だ。しかし不謹慎ながらつい観てしまう。まあ、”集団いじめ”的な『ゴチ』よりはましだけどね……

 

、ところで、そんな「大喰い」「激辛喰い」を定期的に企画・放送しているのが日テレ系の『有吉ゼミ』だ。ここでは、毎週ではないが、「大喰い」2本「激辛喰い」1本の3本立てで放映する回が定期的にある。その『有吉ゼミ』の「大喰い」の回だった去る11月2日の放映回の「激辛喰い」のコーナーに、何と往年の大映ドラマヒロイン・杉浦幸が登場した。思わず「おお~っ!」と声を上げてしまったよ(;^_^A

 

 杉浦幸といえば、上記の大映ドラマ(フジテレビ系)の『ヤヌスの鏡』でデビューし、それから同系列の『この子、誰の子?』や劇場映画『湘南爆走族』といった作品に立て続けに参加し、80年代を代表する若手女優だった。しかし、それ以降これといった活躍もなく、いつも間にか芸能愛からFOしたような感もあり、ある種“80年代の徒花”とでもいうようなイメージを感じていた。そのことに関しては、以前当ブログでもしたためた。

 

 

 

 そんな杉浦幸がいきなり登場である。どうも彼女は当時、マネージャーのトラブルに巻き込まれて最初に所属したホリプロを出ることになり、その後もいろいろ苦労をしてきたようだが、別に芸能界を引退したわけでもなく、未だ“現役”を貫いているそうである。御年51歳になった彼女は、当然ながら齢を重ねそれ相応の容貌になっていたが、当時の面影もそこはかとなく残っていた。もっとも、現在『ヤヌスの鏡』がCSで放映されているだけに、どうしても当時の彼女と今の彼女とを比較してしまう。そう思ってみると、あの儚げな表情の裏に芯の強さとある種の”キツさ”を醸し出していた当時よりは、現在の彼女の方がむしろ“丸く”なったように見えたけどね。しかし、番宣でもなく、さらに早々にギブアップした彼女には、今回出演した動機は見えなかったな。もしかしたら往年の彼女のファンがスタッフにいて、それで彼女にオファーを出したのかもしれない。

 

 ところで、今回の番組を観て、やけに懐かしくなりいろいろとネットで検索したところ、何と1年前に件の『ヤヌスの鏡』がリメイクされていたことを知った。その34年ぶりのリメイクで杉浦幸に変わって二重人格の主人公を演じたのが、何と「岡山の奇跡」こと桜井日奈子。見るからに“虫も殺さない”ような天然のぶりっ子ぶりを披露しながら、その内にはバスケット選手独特の勝気な性格や意地悪っぽい雰囲気も秘めた彼女は、本作の主人公・小沢裕美役にはうってつけの女優といえる。しかも嬉しいことに、本ドラマのナレーターを杉浦幸本人が務めたんだそうである。もともとネットドラマとして制作されたが、その後、地上波フジ系の深夜枠でも放映されたんだそうだ。嗚呼、気づいていれば絶対観たのになぁ……もしかしたらDVD化されてるかもしれない。また近くレンタルショップに行かなければ……(;^_^A

 

 

 それにしても、こんな形で新旧ヒロインが“共演”するのは、実に喜ばしいことだ(^^)  だから『ワンダーウーマン』も、早くガル・ガドットとリンダ・カーターの“共演”を実現してほしいね!

『鬼滅の刃』 およそ100分の1の“大快挙”

 今や破竹の勢いで観客動員数を伸ばしている、『劇場版 鬼滅の刃 無限列車偏』だが、ついに封切16日目で、観客動員1000万人を突破したのだそうだ。かなりの数のリピーターもいると思うが、おおざっぱに延べ人数でいくと、日本に住む人間のほぼ10人に1人位が観た計算になる。

 

 

 1950~1960年代、日本で映画人口がピークだった頃は、年間観客動員はおよそ10億人。まだまだテレビが本格的に普及してはいなかったものの、国民がほぼ年に10回は劇場に足を運んでいた計算になる。その頃は、あまりの観客の多さに入場券売り場では紙幣をさばききれず、床にまで紙幣があふれかえっていた、なんて信じられない逸話も残っているくらいだ。

 

 昨今は、新型コロナ禍に至る前までは、だいぶん映画業界も潤い始める兆しがあったとはいえ、そしてピーク時からすれば及ばないものの、一本の映画で、そのピーク時の年間全映画興行収入の100分の1の観客を僅か2週間余りで稼ぎ出したってのは、やはり特筆すべきことだろう。

 

 もっともそれには、昨今のシネコンの隆盛と、それ故洋画をはじめ上映本数が限られる中シアターの空きが生じ、そこに折からの“緩和制作”と、大ヒットが予想されるためそれら空きシアターがほとんど『鬼滅の刃』で稼働したことが、大きな要因として考えられる。今後洋画が徐々に従来のように公開されるようになると、今回のような、一時期に同一作品での大量の観客動員は、キャパの都合で不可能になるから、これは一過性の記録になるだろう。だから今回の大ヒットに気をよくして続編を制作しても、そして仮にその作品がヒットしたとしても、こんな“お化け”のような記録はもう樹立できないだろう。まあ、制作サイドは「いい夢見たな」くらいに思っておいた方が無難だろう。

 

 それにしても、別作品を観賞しながら横目で『鬼滅の刃』を観賞するために長蛇の列を形成している様子を見るにつけ、やはり映画には人を元気にさせるパワーがあるのだと、改めて実感する。こればかりはTVもビデオ(DVD)も叶わないように思える。そして潜在的にはまだまだ劇場公開映画も捨てたもんじゃないって感じるね。まあ、私が観賞したのは『みをつくし料理帖』だったけど(;^_^A

 

一応広島バルト11では、『鬼滅の刃』『みをつくし料理帖』両方推し(;^_^A

 

 そうは言うものの、未だ日本の映画は入場料が高すぎる。せめて大人一人1,000程度にしてくれりゃ、逆に観客数はうんと増えて、結果的にはそっちの方が潤うと思うんだけどね………って、後10数年もすれば国民の半分以上がシニアの料金で観賞できるようになるんだけどね………これって、ブラックジョーク?(;^_^A

 

 


鬼滅の刃」公開から16日で動員1000万人突破
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202010310001384.html

ピグモンに癒されて(;^_^A

 最近思う所があって、少しずつ六畳の部屋を片付けつつある。部屋の中にはここに引っ越した十数年前より開いてない段ボール箱がいくつも積み重ねられている。要はこれらの段ボールに仕舞われたままのものを少しでも処分したいがためだ。

 

 しかし悲しいかな、どんな些細なものにもそれ相応の思い出があるため、どうしても処分に踏み切れない。そんなわけで、最近は少しでもモノを増やさないように、今までなら安易に手を出していたものも、我慢するようにしている。まあ、おかげで無駄遣いは減ったけどね(;^_^A

 

 そんな中、久々に開いた段ボール箱の中から、これも十数年ぶりにガチャの入ったビニール袋が出てきた。そういえば、新婚当時、ガチャガチャで特撮ヒーローや怪獣などを夢中であさっていた私のことを、家内があきれ返っていたことを思い出す(;^_^A そんな昔の嬉し恥ずかし夏化しなフィギュアの中で、思わず目についたのがこれだった。

 

 

 『ウルトラマン』に登場したピグモンだ。おそらく「小さな英雄」の回で、デパートのおもちゃ売り場で科特隊に発見されたシーンの復元だろうが、変にリアルで、オリジナルのガラモンにも似たある種グロテスクで、それでいて愛嬌たっぷりの表情で眠っている姿を見るちょ、何故か癒される(;^_^A

 

 しばらくPCの横において、疲れた時には癒してもらおうか(;^_^A

ゴジラ 「核兵器の落とし子」か「無敵の破壊王」か……?

 今日2020年11月3日は、かの”水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が封切られて、76年目の日だ。今年は先に核兵器禁止条約がついに批准されたりと、サブタイトルのように水爆をはじめとする核兵器への警鐘を鳴らした本作にとって誠に意義深い一年となったが、残念ながら、私の知る限り、地上波はおろかBS・CSにいたるまで、ゴジラ関連の映画・特集の放映は皆無だった( ノД`)

 

 さて、本作のテーマも空しく、この度の核兵器禁止条約批准を、「核の傘にあるからこそ平和なのに」と鼻で笑う者がこの日本にも数多くいるのは如何ともしがたいところだ。残念ながらそんな輩の中にはゴジラをはじめとする怪獣映画が大好きな、我々のような年齢層の者も多くいることは確かだ。だったらなんで『ゴジラ』の物語の中に潜む反核平和のテーマを推し量ることができないのか、なんて思ってしまうが、実際には、そんなテーマ性以前に、ただ大怪獣が(当時としては)緻密に再現された大都市を破壊する醍醐味にカタルシスを覚えて、ゴジラ他怪獣映画を熱烈支持する人が多いのも事実だ。むしろ、このゴジラ他日本の“カイジュウ”があれだけ世界の注目を浴び続けたのは。そのカタルシスによるものが多い。

 

 かの『フランケンシュタイン対地底怪獣』『フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ』を東宝と共同制作したベネディクト・プロを率いたヘンリー・G・サパーシュタインは、前期の作品以前に合作した『怪獣大戦争』で、いきなりP-1号がX星に到着するところから物語が始まるように仕向けた。また前期の『フラバラ』では、第二次大戦末期のドイツ戦線でヒトラーの名を受けたナチの将校がリーゼンドルフ博士からフランケンシュタインの心臓を受け取るシーンから、また『サンガイ』では、いきなり大蛸が密輸船の船員を襲うシーンから始まる。これはサーパシュタインが、従来の東宝特撮はやたら重苦しい会議のシーンが多く、これでは海外の観客は退屈で仕方がないと考え、自分の関わった作品では、そんなシーンをすっ飛ばしていきなり物語の本題に入るべきと考えての演出提案だった。実際、『ゴジラ』のアメリカ上映版『怪獣王ゴジラ』にしても、ゴジラの背景に潜む核の脅威や反戦の思いよりも、破壊王としてのゴジラをクローズアップした再編集がなされていた。それはたとえ戦時下とあっても原爆“加害者”であるアメリカならではの“事情”が反映したのかもしれないが、おそらくそのアメリカ版が全世界で上映され好評を博したことを考えると、ゴジラはあくまで“破壊王”で、それ故全世界の支持を受けたのかもしれない。もちろんそれは被爆国そして被爆県に住むものとして忸怩たる思いはあるが、別の点で、そんなテンポよくデストロイとカタルシスに充ちたゴジラ映画もまた悪くはないし、外貨獲得にはそれでもいいのではないかって思う。

 

 

 日本国内では”ワースト”にランキングされることが多い『ゴジラ対メガロ』が、全米では絶大なる人気を誇っている。翻って、日本国内では空前のヒットとなった『シン・ゴジラ』の国外での観客動員が、意外にもさっぱりだったと聞く。ただそれを上記のような事柄を元に考証してみると、やはり内閣を中心に延々会議のシーンが続く『シン・ゴジラ』より、単純明快・勧善懲悪(ルックスからして一目瞭然)な『ゴジラ対メガロ』の方に、世界的視野においては軍配を挙げざるを得ないのかもしれない。勿論個人的には断然『シン・ゴジラ』の方が面白かったけど……

 

 ローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』以降、ゴジラ映画は日本とアメリカとでやじろべぇの如く行ったり来たりしているが、新型コロナ禍の影響で上映時期が未だ不透明な『Kong vs Godzilla』が無事上映された暁には、果たしで日米どちらがその後を継いでゴジラ映画を撮るのか? レジェンダリーはこれから「チャンピオンまつり」化を続けていくのか? 『シン・ゴジラ2』は果たして制作されるのか? 期待は尽きないが、もし日本(東宝)が再びゴジラ映画で世界に打って出るようなことを考えているのならば、反核平和の精神を失わないまま。、それでももっとテンポよく娯楽に特化した、世界でも通用するテンポの、そんな映画にしてほしい。

『犬神の悪霊』が!『愛・旅立ち』が!  2020年CS“攻め”の年末!!

 もうそろそろ来年に思いを馳せる時期がやってきたが、そんな2020年・年末のCSは、なかなか強烈なラインナップが目白押しで、あたかもCS各局挙げての「“攻め”の年末傑作選」って趣がある。

 

 

 まず何といっても、チャンネルNECO放映の『犬神の悪霊』がその筆頭だろう。詳しいいきさつは知らないが、テーマがテーマだったり(ちょっぴり封印作品の『獣人雪男』のそれを彷彿させる)、犬の首切りシーンが動物愛護団体を怒らせてしまったとか(実際に本物の犬の首を刎ねたのかは不明)、等々の因縁で、一度高額のビデオが販売されて以来、公開タブー作品になったと認識していた作品だ。どうも、角川映画犬神家の一族』のヒットで「犬神」の名を拝借したり、松竹『八つ墓村』のヒットで、東映岡田茂社長が「オカルト映画を撮れ」と厳命した結果世に送り出されたり、と、あたかも『ジョーズ』のヒットで『怪鳥恐竜の伝説』を、また『悪魔のいけにえ』の影響下で『徳川女刑罰絵巻牛裂きの刑』を、それぞれ制作したいきさつに似ていて、何とも東映っぽいいかがわしさに充ち満ちた作品だ。

https://www.necoweb.com/neco/program/detail.php?id=5384&category_id=2

 

 当然未見なんで、今から待ち遠しい。でもこれって、同じくNECOで、ずっと観る機会に恵まれなかった、『牛裂きの刑』の牧口雄二監督作品による”擬似ウィークエンダー”の『戦後猟奇犯罪史』がいきなり放映されたときに似ていて、まさに“奇跡”を感じる思いだ。また、本作もラインナップの一つに入っている特集「知っちゃいけない!入ちゃいけない!信じちゃいけない!ダメ絶対ッ!その村!」では、何と奥山和由プロデューサー・田中登監督・古尾谷正人主演の超問題作『丑三つの村』も放映が予定されていて、このNECOの神をも畏れぬ“攻めの姿勢”には大いなる共感を覚えている(;^_^A

https://www.necoweb.com/neco/program/detail.php?id=5385&category_id=2

 

 一方、日本映画専門チャンネルも、現在絶賛公開中の「プレイバック!アイドル黄金時代~80年代アイドル映画Colection~』のカテゴリーで、12月には何と、中森明菜近藤真彦主演の『愛・旅立ち』を放映するんだそうだ。主演の二人とそのタイトルから正統なアイドル映画のように見えるが、その実態は、超常現象や丹波哲郎の“死後の世界”の世界観も織り交ぜたトンデモ映画に仕上がっているらしい。本作は既に歌謡ポップスチャンネルでも放映されているが、この作品を「~80年代アイドル映画Colection~」のカテゴリーで放映してしまう、日本映画専門チャンネルの“確信犯”的ラインナップには、舌を巻いてしまう(;^_^A

 

 

 その日本映画専門チャンネルでは、11月14日に、上記の丹波哲郎の怪演が光る、今まで“学会”に入らない限り幻の作品だった『人間革命』『続・人間革命』が再び放映されるそうな。しかも4Kリマスター版として。まさか政府与党への忖度ではなかろうかってくらいの大盤振る舞いだ。でも映画としては必見の“人間スペクタクル”で、丹波の魅力といやったらしさが炸裂した作品である。

 

 それにしても、年末のCSは注目大だ。これからもどんな“隠し玉”が登場するか……とにかくブルーレイレコーダーのハードディスクをせっせと整理して、録り漏らさないように気をつけねば………!

残り2ヶ月 2020年中に“挑戦”出来るか……?

  新型コロナウィルスの影響下で幕を開けた2020年。かの「ウルトラQ」㐧19話ではないが、まさにこの「2020年」は人類が新型ウィルスからの「挑戦」を受け、逆にその解決手段を模索する果てしなき「挑戦」を続ける年となった。巷では数年来より大友克洋の『AKIRA』が2020年の東京五輪開催を予言したと騒がれ続けていたが、その東京五輪も劇中の看板に落書きされた「中止だ中止」の文字通り延期になった今、「ウルQ」の「2020年の挑戦」の方がよっぽど現実味を帯びてき始めた。願うらくは、人類による新型コロナウィルスへの“挑戦”が無事成就しますように………

 

 

 さて、そんな2020年もついに霜月11月を迎え、残り2か月となってしまった。ホント月日が過ぎ去るのは早い。しかもこんな非常事態が続いているわけだから、「早く現状が変わってほしい」との願いから、精神的にはより加速度が増したような気がする。しかし……翻って、今年が始まってから何度も繰り返している我が“挑戦”は未だ何一つ進行していない。こんな新型コロナ禍の中で、都合2回も「広島発ヒロインアクションチャンピオンまつり」開催を“挑戦”したものの、残念ながら共に開催には至らなかった。新作の方も未だ五里霧中だ。その分、現実世界の方は、不規則なるが故に慌ただしさは半端なく、どこか自分を見失いそうな時がある。そこで専ら映画を観たり読書をしたり酒を飲んだり、そしてこうやってブログをチマチマ書きながらかろうじて精神の安定を図っているところだ。もっともどうしても夜更かししてしまうのは如何ともしがたい(# ゚Д゚)

 

 

 おそらく生涯にわたってこの2020年は忘れがたい年になると思うので、残り2ヶ月、その動向を見守っていきたいし、何か一つぐらい「こんなことをした」って言えるくらいの“足跡”を残したいものだ。

 

 ところで、2001年にはその年に『2001年宇宙の旅』“リアル観賞”の機会を逃し、2010年には「今度こそは」と『2010年』のDVDを通販で買ってまでして”リアル観賞”を実現させた。ところで、上記の「ウルQ」㐧19話のように、タイトルに「2020年」って入っている映画ってなかったっけ……?

 

『映像研』に『手を出』した! その② ~観賞レビュー「不条理劇が愛くるしさに変わる時」~

 “映像研”というタイトルといい、乃木坂46の綺麗どころ3人を主人公に据えたキャスティングの妙といい、早くから興味・関心が尽きなかったのが、「月に一度は劇場で映画観賞」の9月作品に選んだ『映像研には手を出すな!』だった。このタイトルとキャスティングから、健気な女子高生3人が、紆余曲折を経て一本の素晴らしい映画を完成させる、それこそ『スゥイングガール』(吹奏楽)や『幕が上がる』(演劇)のようなノリの「高校文化系クラブ“スポ根”映画」の、ついに登場した“映研”編だと勝手に想像していた。しかし、確かに「『映像研』所属の女子高生が映画を創る」話ではあるんだけど、その主題以外は、私の想像をはるかに超えた“ぶっ飛び”映画だった。

 

 芝浜高校に入学した、アニメ映画を演出することを夢見ながら“超”がつくくらい引っ込み思案な浅草みどり(齋藤飛鳥)、俳優一家に生まれ自らも美人のカリスマ読者モデルながら、実はアニメーター志望の水崎ツバメ(山下美月)、そして、みどりと中学からの同級生だが、彼女とは裏腹に商才(損得勘定)やマネージメントに長けた金森さやか梅澤美波)の3人が、新しい部活「映像研」を立ち上げ、同会としての認可を勝ち奪ったり、クラブ統廃合の危機を乗り切ったりしながら、最終的に部費獲得のため文化祭で発表するアニメ映画を完成・上映させる、というのが大まかなストーリーで、今回の映画で描かれたのは、部統廃合の危機から無事アニメ映画を上映、好評を博すまでの後半の部分だった。

 

 実は、前半の3人の出会いから同好会認可までのストーリーは、メディアミックスの一環として同一キャスト出演で制作され、既に放映された全6話によるTVドラマで描かれていて、それに関しては今回の観賞前にチェックしていた。しかしながら、それは私が想像していたイメージと、あまりにもかけ離れていた。

 

 まず、舞台の芝浜高校の設定からして、尋常ではない。校内には413のクラブと72の研究会・同好会が犇めいているというカオスな状態。そんな部活動を総括するのが、大・生徒会なる生徒の自治組織。クラブ予算から統廃合にいたるまで全ての権限を持つ大・生徒会と「映像研」との対立が物語の柱となるのだが、この大・生徒会ってのが、常軌を超える程の校内の権力集団で、しかも、どうも会長の道頓堀透(小西桜子)を筆頭に「映像研」を目の敵にしている節があり、その高圧的ないやがらせも常軌を逸していた。また、主人公の3人も、特にメインの浅草みどりのキャラクターが、こちらの感情移入を拒むくらいぶっ飛んでいて(演じる斎藤飛鳥は3人の中でも売れっ子のはずなのに……)、それにほかの二人(特に金森さやか)が振り回されるようで、その辺りを描いていたTVドラマを観て、一時は本作を劇場で観賞するのを躊躇したくらいだった。

 

 さて、映画の方は、「映像研」の認可後から始まるんだけど、冒頭、何故か大・生徒会による「気象研」への“ガサ入れ”から物語はスタートする。そこから逃げ出した晴子が、激しい雨の降りしきる中、下駄箱で雨やみを待ちながらとある生徒から体験談を聞かされるシーンで、前述のTVドラマのストーリー(同好会新設の聴聞会で、大・生徒会の面々を向こうに回し、引っ込み思案のみどりが精いっぱいの啖呵を切り、認可させるまで)がダイジェストで流れる、というテクニックで、ドラマを観ていない者にも物語世界にスッと入れるような演出がなされている。ここで晴子を演じるのは、今ドラマCM界で引っ張りだこの浜辺美波。しかし、本来ならば主役クラスの彼女が、本作では殆どドラマに絡まず、出演シーンもわずかな晴子を演じているのは、意外というか実にもったいなかったように思えた。

 

 それから、上記の回想シーンに登場したみどり、ツバメ、さやかの3人が、立ち上げた「映像研」の統廃合の危機を逆手にとって、さやかの機転もあって自ら「ロボット研」と手を組み、ロボットアニメの制作に乗り出す。当初はそれをソフト化してコミュケで販売し部費獲得を目指すが、学校(教員)サイドの“横やり”によって、コミュケ参加を断念。そこから文化祭での上映によって大・生徒会から部費の増額を勝ち奪る作戦にシフトしていく。しかしさやかの打算とは裏腹に、演出のみどりも、アニメーターのツバメも、条件ばかりを要求して、一向にアニメ制作に身を入れない。期限が迫る中、業を煮やすさやか……そんな形で物語が進行していくんだけど、そこら辺りの前半の場面の記憶はどこか曖昧だ。

 

 それというのも、当日は仕事帰りで遅い回の観賞であり、しかも軽めの夕食と思いマックバーガーとアイスコーヒーのSを観賞前に摂ったことが仇となり、しかも前半の主人公たちのモタモタぶりからくるいらだたしさから物語に没頭できなかったことも手伝って、前半はついうつらうつらしてしまった( ノД`)  映画館でうとうとしたなんて、それこそ林海象の『ジパング』を観て以来の愚行だ(その前は学生時代に観た、ゴダールの『気狂いピエロ』と『カルメンという名の女』の2本立て(;^_^A)。ああ、何とも情けないよヾ(- -;)ヾ(- -;)

 

 ただ、後半への橋渡し的な時間帯で、それまで一人イライラし徒にみどりやツバメの尻を叩いてばかりいたさやかが、そのマネージメント能力と行動力を駆使して、2人の理不尽な要求や、文化祭参加によって急遽浮上した上映会場問題を、2人が知らぬ今に一気に片付けて、彼女らのやる気に火をつけるシーン辺りから俄然面白くなってくる。実はこのシーン、会食する2人の許に疲れ切った表情のさやかが現れ、諸問題が解決したことを告げてその場で仮眠をとるわけだが、これって黒澤明監督『七人の侍』で、居合の達人・久蔵(宮口精二)が夜半単身野武士の砦を襲って「種子島」を奪い、翌朝涼しい顔で戻ってきて、驚く皆の前で仮眠をとるシーンにシチュエーションも仕草も雰囲気もそっくりだ。そう考えると、本作には結構往年の名作のオマージュがふんだんに散りばめられていて、冒頭の雨やみのシーンはいかにも『羅生門』(黒澤明監督)であり、劇中突然何の脈略も伏線もなく、みどりがいきなり広島弁(それもかなり荒っぽいもの)でまくしたてるシーンも、実は『仁義なき戦い』(深作欣二監督)の広能(菅原文太)へのオマージュと考えれば合点がいく。流石「映像研」の名に恥じない演出だ(;^_^A

 

 それまで挙動不審な行動ばかり取っていたみどりとツバメにようやくエンジンがかかり、彼女らの制作するアニメ映画も後は完成を待つばかりとなったが、前半のもたつきぶりが影響して、とても期限の文化祭当日に間に合いそうもない。そうなると、世の文科系クラブ生徒の多くが文化祭前の土壇場でそうするように、前日より学校に残って徹夜で作品を仕上げようとする。しかしそうはさせじと、道頓堀率いる大・生徒会は、多くの忠実な生徒を警備員然とさせ、各クラブが居残って作業できないよう、徹底的な監視をする。途中「この大・生徒会の監視行動も、徹夜の部活とおんなじじゃないか」と身内から指摘されるものの、会長の道頓堀は動じない。居残りクラブを片っ端から検挙し、ついに「映像研」にもその魔の手が伸びる。ついに大・生徒会きっての武闘派・阿島九(福本莉子)率いる舞台に囲まれる映像研の三人。まさに万事休す………でも翌日、無事映画は完成する。そこのいきさつは本作の中でも一番のシークレットだからここに書かないけど……「身代わり部」がいい味出してたよ(;^_^A

 

 不思議なもので、前半あれだけぶっ飛んでいて感情移入が出来なかった3人も、ここら辺になると実に愛らしく見えるようになってきた(;^_^A やはり3人(特にクリエーターの2人)に火が付いた辺りが一つのきっかけになったようだ。しかしまだまだ物語は一筋縄ではいかない。冒頭の「気象研」ガサ入れ時に、唯一逃げおおせた部員の晴子(浜辺美波)が手にした箱の中には、何故か小型の台風が入っていて(?!)、彼女の手によって解放された台風は世界各地で猛威を振るうこととなる。その結果、「映像研」顧問の藤本(高嶋政宏)は異国の地で足止めを喰らい、ツバメの両親は海外行きがキャンセルとなり、急遽娘の文化祭に顔を出すことになる。前者は藤本が上映会場のカギを持ったままで帰国できず、会場に入場できないという事態を呼び、後者は、来場によって親から固く禁じられていたアニメ制作を娘が行っていたことがバレる、という事態を生むのである。窮地に陥った「映像研」の3人………。しかし会場の方は、大・生徒会のメンバーでありながら何故か彼女らに助太刀したさかき・ソワンテ(グレイス・エマ)に扉を破壊してもらって事なきを得、アニメ上映そのものも、クオリティーの高さにツバメの両親もツバメの行動を認めるという形で大団円を迎える。なんだかクライマックスからラストに向かって、実にほんわかした雰囲気に包まれていたよ(;^_^A

 

 決して等身大の物語ではなかったけど、最終的には登場人物、とりわけ主人公の健気さが伝わってきて、実に爽やかな作品だった。それにしても、アニメ映画演出、要は「監督」のみどり、セル作画、要は「撮影」のツバメ、そしてそのものズバリの「プロデューサー」のさやか、というトリオは、映画制作としては理想的な構成だ。原作の展開は知れないけど、この3人がどんどん映画を撮っていく、なんてサイドストーリーも期待したいな(;^_^A  そういえば、個人的には「プロデューサー」のさやかに一番感情移入したかもしれない。それ故モゾかしいシーンも数々あったけどね(;^_^A

 

 

 こちらが本作のパンフレット。流石に1,000円は高かったなぁ……内容も映画の解説というよりは、乃木坂の3人中心の構成だった。彼女らのファン位は堪えられない構成なんだろうけど……でもamazonではこれに1,800円の値がついていたよ(゚д゚)!

 

『映像研』に『手を出』した! その① ~仕事帰りの観賞劇~

 本来『みをつくし料理帖』とは順番が逆だし、且つもう一か月前の話になってしまったけど………長月最終週に、『映像研には手を出すな』をついに観賞。今まで劇場で好んで観てきた洋画の、それもSFスペクタクルか(ヒロイン)アクションのような作品とも違う、邦画の、それも漫画原作の学園ドラマをどうして観ようと思ったかといえば、まずタイトルの「映像研」って言葉に惹かれたのと、以前別の映画で本作の予告編を観た娘から、「これ、パパが好きそうな映画」って言われたことがその理由だった(;^_^A

 

 

 よって最初に本作を観ようと思い立った時には、予備知識も何もない状態だった。そんな折、メディアミックスの一環として、映画と同じキャストで制作された同じタイトルの全6話のドラマがCSで放映されていることを知り、途中の回からではあったら語句がして、「予行演習」とばかりに事前観賞した。すると、当初は健気に自主映画道を邁進するヒロイン高校生の姿をコミカルに描く作品と思いきや、異様に振り切れた、ある種不条理な物語なんで驚いた。設定からして全然“等身大”じゃなかったし……

 

 そこで一時は観賞を躊躇した『映像研には手を出すな!』だったんだけど、他の上映ラインナップを確認したらやはり本作しかなさそうで、結局上記の通り観賞と相成った。そこら辺は、7月観賞予定の『アナ/ANNA』の広島封切がギリギリの31日になってしまったことによって、急遽“7月分”の観賞となった『今日から俺は!!劇場版』の時に似ている(ちなみに『アナ/ANNA』は8月観賞)。9月は、既に『れいこいるか』を横川シネマ!!で観賞してはいたが、あいにくパンフレットがなかったので、どうしても“月に一度は劇場で映画観賞』の2020年9月分のパンフレットも欲しくての観賞だった。もっとも、本作のパンフが1,000円もしたのは参ったが……

 

 

 そんなわけで、時期的にもぎりぎりだったんで、平日の9月28日(月)の仕事帰りに、いつもの広島バルト11に立ち寄って、18:00からの回を観賞することにした。入場前に、マックの110円ハンバーガーと100円プレミアムローストアイスコーヒーMサイスを食べて腹ごしらをしてから会場に足を運んだ。しかし、この日この時間帯、そして事前の腹ごしらえが、結果的に林海象ジパング:』以来の醜態をさらしてしまうことになるのだが………(いずれその②に続く(;^_^A)

『みをつくし料理帖』 ~やさしさに包まれた一大感動スペクタクル!~

 70~80年代の邦画界を席巻した「角川(春樹事務所)映画」。個人的にも、多感な青春期の自分に多大な影響を与えてくれた(とりわけ第2弾の『人間の証明』に出会えなかったら、今の職も今の趣味も手に入れることが出来なかった)、その「角川映画」の総帥にして、時代の寵児と謳われた角川春樹氏が、自身「最後の監督作品」と公言し世に送り出したのが、意外にも『みをつくし料理帖』であった。20世紀にあれだけ世間を騒がせたスペクタクル映画を数多プロデュースした氏が、その最後に選んだのが、江戸時代を舞台にした等身大の人情劇だっとは、ある種驚きだった。しかし、本作を観終えての感想は、「やはり『最後の監督作品」にふさわしい出来・内容だった」って感慨だった。

 

 本作の主人公・澪は、上方・大坂で暮らす少女。彼女には姉妹のように慕っている親友・野江がいたが、ある日大坂を襲った大水(大洪水)で、彼女は両親を失い、野江とも生き別れてしまう。幸い彼女は天満一兆庵の女将・芳に拾われるが、野江の消息は分からずじまい。
 
 それから10年後、芳と共に江戸にやってきた澪は、神田のそば処「つる屋」で料理人として働くことになるが、上方と江戸との味付けの違いに戸惑い、試行錯誤。そんな彼女は、「つる屋」常連の(実は)御膳奉行・小松原や町医者の永田に支えられながら、ついに上方と江戸の味を融合させた出汁を開発、それを使った茶わん蒸しを振舞うことで、「つる屋」は江戸でも評判の店となり、店主の種市から「店を継いでほしい」と頼まれるようになった。

 

 そんな折、澪が上方出身の料理人であることを聞きつけた遊郭・翁屋の料理番・又次が訪れ、故郷が大坂である幻の花魁・あさひ大夫のために、茶わん蒸しと共に「故郷をしのばせるような何か思い出話でもいいから聞かせてほしい」と彼女に請う。そこで彼女はたまたま野江との思い出話を当時の地名も交えながら又次に話して聞かせるが、遊郭に戻った又次から茶わん蒸しと共にその故郷の話を聞かされたあさひ大夫は、言葉を失う………

 

 ネタバレ以前に、このあさひ太夫が澪の幼馴染の野江だったことが前提に物語は進行していく。そして、この二人が無事再会できるか否かを柱に、料理人としての澪の成長の物語と、他の各登場人物のエピソードが幾重にも折り重なって進行していく展開は見事だった。

 

 そして特筆すべきは、意外にもこの種のドラマにありがちな“いじわる”キャラがほとんど登場しない、ということである。強いて言えば、「つる屋」の商売敵として登場する、「登龍楼」の姑息な店主・采女宗馬くらいか。この采女は、老舗でありながら澪の出汁を盗用したり、配下を使って「つる屋」の営業妨害をしたり、挙句は付け火で「つる屋」を全焼させたりするなど、”実に分かりやすい”非道の限りを尽くすが、それを見通した小松原の一言でぐうの音も出なくなってしまう。しかもそのことを気に病んだあさひ太夫からの融資で、「つる屋」は無事再建され、澪にとってはほとんど痛手にはならなかった。他にも、あさひ大夫の秘密を探ろうとして澪との「料理勝負」にまで発展する戯作家・滝沢清右ヱ門(馬琴)の存在があるが、横柄なふるまいとは裏腹に根はいい奴、って設定で、結果的には澪の協力者となる。

 

 そんなわけで、まるで“完全無欠のヒロイン活劇”を観ているかように、実にノンストレスな展開で、何て言うか、全編“やさしさに包まれた”映画だった。それこそ、「やさしさに、包まれたなら、きっと、目に映る全てのことはメッセージ~♪」って松任谷由実の歌詞のフレーズが自然と脳裏に浮かんでくるような物語だったよ。

 

 また“泣かせる”ことにも特化した映画だった(※ここからは、多少ネタバレあり!)。泣かせのポイントは計3か所。付け火で「つる屋」が全焼し、料理人として生きる気力も失った澪の許に又次が訪れ、あさひ大夫のためにもう一度料理を作ってくれと請願する。そこで澪は気力を振り絞って弁当を作り、又次から差し出された弁当箱に詰めようとして開けた瞬間、中から一枚の懐紙が。そこには一言「雲外蒼天」と書かれていた。それは彼女が8歳の時、野江と共に高名な易者水原東西に予言された時の言葉だった(苦労の多い人生だが、その苦労に耐えて精進すれば、必ず青空が拝める、という意)。その時初めて澪はあさひ大夫が野江であることを悟り、魂の涙を流す(その際、例の融資金・十両も同封されていた)。これが最初の泣かせポイント。観ている側は既にあさひ大夫が野江であることを知っているだけにやきもきして観ていたのだが、ここで安堵の気持ちと共に澪の思いが痛いほどわかる感動とが相まって、思わずもらい泣きしてしまうのである。

 

 次のポイントは、あさひ大夫の融資によって再建した「つる屋」が以前よりも増して繁盛し、それで融資してもらった十両を返済しようとした澪が、町医者・永田の手引きで直接遊郭・翁屋まで訪れるシーン。その十両に添えられた懐紙に、逆に野江が水原東西に予言された言葉「旭日昇天(天下取りの強運の相)」が書かれていることを知ったあさひ大夫が、そっと窓の下を見ると、そこに澪が佇んでいる。吉原遊郭のしきたりで、身請けされるまで一切自由が認められない花魁の性ゆえ、澪と会うことも叶わないあさひ大夫は、一旦覗かせた顔をすっと引っ込め、右手だけ出して狐の形を手まねて「狐はコンコン、涙もコンコン」と澪に聞こえるようにつぶやく。それを見つけた澪も、同じ仕草で応える。これは幼少期の2人が互いにしていた、思い出の仕草だったのである。互いに涙を流しながらそれでも笑顔で「狐はコンコン、涙もコンコン」と唱和する。これは実はポスターのビジュアルだったりするのだが、涙を堪えるのが精いっぱいだった。

 

 こちらがポスター・チラシと同じビジュアルのパンフレット表紙。まさにこのビジュアルこそ第二の泣かせのポイントそのものである。ちなみにこのパンフ、価格が\1,000とえらく値が張ったが、中にはオリコミ付録で「澪の料理レシピ」なる小冊子がついているなど、ここらあたりは「角川商法健在なり!」って言ったところだろうか……(;^_^A

 

 

 最後はラストシーン。仮にあさひ大夫を身請けして自由にさせるためには、4千両という途方もない金が必要だと知らされた澪は、それでもいつかその額を集めて、あさひ大夫こと野江を自由の身にさせることを決意する。吉原の遊女たちは定期的にまつりを開催し、皆狐面を身につけて街を練り歩くのだが、その際に山車に乗った幻の花魁・あさひ大夫は、唯一面を取らない。そんなまつりの日、澪は又次から、その街道にあるうらぶれた稲荷神社の前で待つように告げられる。「自分が出来る精一杯だ」という言葉と共に。言われるままに澪が神社の前で待っていると、祭りの列から不自然に彼女を見つめている狐面の遊女の存在が。やがてその遊女は列を離れ、一直線に澪に向かって駆け寄ってくる。驚く澪。するとその遊女は立ち止まるなり、片手で狐の形をして「狐はコンコン」と仕草する。思わず大粒の涙を流す澪。そこで、遊女はためらいがちに一瞬その面を取る。そこにあったのは(山車に乗っているはずの)あさひ大夫・野江の姿。思わず歩み寄ろうとする澪だったが、野江はすぐに踵を返し、背中越しに「狐はコンコン、涙もコンコン」とつぶやいて、再び一目散に祭りの列に消えていく。それを胸いっぱいに見守る澪。山車のあさひ大夫だけが面を取らないという設定は、このラストに向けての伏線(それ故“替え玉”が可能)だったのだ。ここが一番の泣かせ処だったかな。実は、もう吉原のまつりのシーンが始まった時点で、観る側とすれば「くるぞ! くるぞ!」って、身構えて、それでも泣けてしまった。しかもそのシーンの直後、タイトルバックに至る僅かなシーンに、あの上方の思い出の橋で、現在の澪と野江が並んでいる姿が、いかにも「合成です」と言わんばかりの青空を背景に登場する。これは明らかに現実では叶わない2人の儚い“夢”を映像化したシーンであり、ここに角川春樹監督の果てしない“やさしさ”を感じ取ることができた。

 

 それにしても、上記の3つの“泣かせのポイント”なんて、自然発生的に涙が流れるのではなく、明らかに「ここで泣かせよう!」という明快な意図のもと、“これが映画の方程式だ”といわんばかりに、緻密に計算されて演出されている節がある。でもそれにまんまとハマってしまう心地よさもまたあるわけで、これこそ20世紀の“外連味”たっぷりな映画といえるのかもしれない。

 

 そういえば、これは多少穿った見方かもしれないが、全編を通して、最新作なのにどこか昭和の香り、それも角川(春樹事務所)映画全盛期の映画の雰囲気を感じ取ってしまった。映像も、移動撮影は巧みに使用されていたり、映画のスクリーンを意識した引きのカットなどもあったが、アングル的には実にオーソドックスで、奇をてらったカットはまずなかったように見えた。だがそんなところに言いようのない懐かしさと安定感を感じることができた。まさに本作はあの全盛期の角川映画の再来といっていい。だから実に楽しめた。もう、意外なくらいに(;^_^A

 

 本作における主人公の2人。澪役の松本穂香とあさひ太夫役の奈緒は実によかった。松本穂香は朴訥で一直線な演技ながら、それが一途な澪のキャラクターにマッチしていたし、あの円らな大きな瞳は説得力抜群だった。また奈緒は、どうしても『あなたの番です』のサイコバス然とした印象が強烈だったものの、今回は実にどっしりと腰の据わった演技を披露してくれていて、『あな番』では小悪魔的とさえ見えた笑顔も、本作ではいかにも爽やかで且つ悲哀に充ちていて見事に作品世界にマッチしていたと思う。ほぼ新人に近いこの二人を、本作の主役に抜擢した角川監督の慧眼にはただただ感服するしかない。

 

 脇を固める共演者は、あたかも「角川春樹“監督”の最期を看取る」かのように、往年の角川映画を彩った俳優陣が集結している。前述の「つる屋」店主・種市が『金田一耕助』シリーズの石坂浩二、「登龍楼」の采女宗馬に『野獣死すべし』の鹿賀丈史、易者の水原東西に『蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜』の反町隆史、天満一兆庵の女将・芳(ご寮さん)に同じく『蒼き狼』の若村麻由美遊郭の料理番・又次に『男たちの大和』の中村獅童、他にも小松原の上司・駒沢に『天と地と』の榎木孝明、「つる屋」で澪たちを助けるおりょうに『スローなブギにしてくれ』の浅野温子滝沢馬琴の妻・お百に言わずと知れた「角川三人娘」の薬師丸ひろ子、また「つる屋」常連客の妻・お満に『伊賀忍法帖』『晴れときごき殺人』の渡辺典子、「つる屋」の常連客の一人・清八に『キャバレー』の野村宏伸が、それぞれ出演している。まるで「角川映画」同窓会の様相を呈している。中でも『里見八犬伝』主演の薬師丸ひろ子が、その原作者である馬琴の妻を演じているのは実に洒落が効いているし、野村宏伸は短い出演シーンながら相変わらず演技が下手だった(;^_^A

 

 そこに、滝沢馬琴(清右ヱ門)役の藤井隆、小松原役の窪塚洋介、町医者の永田役の小関裕太といった角川“ニューカマー”が名を連ね、そういった錚々たるメンバーが、角川春樹監督の絶妙なタクトによって見事に演じ、一大感動巨編に仕上がっていた。今まで角川監督は「素人のくせに“大言壮語”して粋がって、その分プロのスタッフを振り回している」なんて勝手なイメージを持っていた。確かに初期はそうだったかもしれないが、今回の『みをつくし料理帖』を観るにつけ、監督の映画に対する謙虚な姿勢と、緻密な計算に裏付けられた演出の妙、そして何よりも“娯楽映画”に仕上げようとする心意気が十二分に伝わってきて、今までの角川監督に対する一方的な印象を恥じる思いだった。

 

 最初に「20世紀にあれだけ世間を騒がせたスペクタクル映画を数多プロデュースした氏が、その最後に選んだのが、江戸時代を舞台にした等身大の人情劇だっとは」云々と書いたが、実は本作は単なる人情劇を超えた、まさに壮大な感動のスペクタクル巨編に仕上がっていたと思う。確かに、全盛期なら、本作では短くサラッと描いていた大坂・大水のシーンも、もっとダイナミックなカタストロフィーとして描いていたかもしれないが、それを差し引いても、これでもかと畳みかけるような感動と人情の波、そして力強く何事にも立ち向かう澪の生きざまなど、まさにスペクタクルの名に恥じない、そして「最後の監督作品」にふさわしい、監督自身にとってもそれが本望と思えるだけの映画だったと思う。また何度も観返したい作品だった。

 

 私も出来ることなら、最後の作品を撮る時には、過去に関わったスタッフキャストを結集して、こんな幸せな雰囲気で映画が撮れたらって、切に願ったね(;^_^A