神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

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『みをつくし料理帖』 ~やさしさに包まれた一大感動スペクタクル!~

 70~80年代の邦画界を席巻した「角川(春樹事務所)映画」。個人的にも、多感な青春期の自分に多大な影響を与えてくれた(とりわけ第2弾の『人間の証明』に出会えなかったら、今の職も今の趣味も手に入れることが出来なかった)、その「角川映画」の総帥にして、時代の寵児と謳われた角川春樹氏が、自身「最後の監督作品」と公言し世に送り出したのが、意外にも『みをつくし料理帖』であった。20世紀にあれだけ世間を騒がせたスペクタクル映画を数多プロデュースした氏が、その最後に選んだのが、江戸時代を舞台にした等身大の人情劇だっとは、ある種驚きだった。しかし、本作を観終えての感想は、「やはり『最後の監督作品」にふさわしい出来・内容だった」って感慨だった。

 

 本作の主人公・澪は、上方・大坂で暮らす少女。彼女には姉妹のように慕っている親友・野江がいたが、ある日大坂を襲った大水(大洪水)で、彼女は両親を失い、野江とも生き別れてしまう。幸い彼女は天満一兆庵の女将・芳に拾われるが、野江の消息は分からずじまい。
 
 それから10年後、芳と共に江戸にやってきた澪は、神田のそば処「つる屋」で料理人として働くことになるが、上方と江戸との味付けの違いに戸惑い、試行錯誤。そんな彼女は、「つる屋」常連の(実は)御膳奉行・小松原や町医者の永田に支えられながら、ついに上方と江戸の味を融合させた出汁を開発、それを使った茶わん蒸しを振舞うことで、「つる屋」は江戸でも評判の店となり、店主の種市から「店を継いでほしい」と頼まれるようになった。

 

 そんな折、澪が上方出身の料理人であることを聞きつけた遊郭・翁屋の料理番・又次が訪れ、故郷が大坂である幻の花魁・あさひ大夫のために、茶わん蒸しと共に「故郷をしのばせるような何か思い出話でもいいから聞かせてほしい」と彼女に請う。そこで彼女はたまたま野江との思い出話を当時の地名も交えながら又次に話して聞かせるが、遊郭に戻った又次から茶わん蒸しと共にその故郷の話を聞かされたあさひ大夫は、言葉を失う………

 

 ネタバレ以前に、このあさひ太夫が澪の幼馴染の野江だったことが前提に物語は進行していく。そして、この二人が無事再会できるか否かを柱に、料理人としての澪の成長の物語と、他の各登場人物のエピソードが幾重にも折り重なって進行していく展開は見事だった。

 

 そして特筆すべきは、意外にもこの種のドラマにありがちな“いじわる”キャラがほとんど登場しない、ということである。強いて言えば、「つる屋」の商売敵として登場する、「登龍楼」の姑息な店主・采女宗馬くらいか。この采女は、老舗でありながら澪の出汁を盗用したり、配下を使って「つる屋」の営業妨害をしたり、挙句は付け火で「つる屋」を全焼させたりするなど、”実に分かりやすい”非道の限りを尽くすが、それを見通した小松原の一言でぐうの音も出なくなってしまう。しかもそのことを気に病んだあさひ太夫からの融資で、「つる屋」は無事再建され、澪にとってはほとんど痛手にはならなかった。他にも、あさひ大夫の秘密を探ろうとして澪との「料理勝負」にまで発展する戯作家・滝沢清右ヱ門(馬琴)の存在があるが、横柄なふるまいとは裏腹に根はいい奴、って設定で、結果的には澪の協力者となる。

 

 そんなわけで、まるで“完全無欠のヒロイン活劇”を観ているかように、実にノンストレスな展開で、何て言うか、全編“やさしさに包まれた”映画だった。それこそ、「やさしさに、包まれたなら、きっと、目に映る全てのことはメッセージ~♪」って松任谷由実の歌詞のフレーズが自然と脳裏に浮かんでくるような物語だったよ。

 

 また“泣かせる”ことにも特化した映画だった(※ここからは、多少ネタバレあり!)。泣かせのポイントは計3か所。付け火で「つる屋」が全焼し、料理人として生きる気力も失った澪の許に又次が訪れ、あさひ大夫のためにもう一度料理を作ってくれと請願する。そこで澪は気力を振り絞って弁当を作り、又次から差し出された弁当箱に詰めようとして開けた瞬間、中から一枚の懐紙が。そこには一言「雲外蒼天」と書かれていた。それは彼女が8歳の時、野江と共に高名な易者水原東西に予言された時の言葉だった(苦労の多い人生だが、その苦労に耐えて精進すれば、必ず青空が拝める、という意)。その時初めて澪はあさひ大夫が野江であることを悟り、魂の涙を流す(その際、例の融資金・十両も同封されていた)。これが最初の泣かせポイント。観ている側は既にあさひ大夫が野江であることを知っているだけにやきもきして観ていたのだが、ここで安堵の気持ちと共に澪の思いが痛いほどわかる感動とが相まって、思わずもらい泣きしてしまうのである。

 

 次のポイントは、あさひ大夫の融資によって再建した「つる屋」が以前よりも増して繁盛し、それで融資してもらった十両を返済しようとした澪が、町医者・永田の手引きで直接遊郭・翁屋まで訪れるシーン。その十両に添えられた懐紙に、逆に野江が水原東西に予言された言葉「旭日昇天(天下取りの強運の相)」が書かれていることを知ったあさひ大夫が、そっと窓の下を見ると、そこに澪が佇んでいる。吉原遊郭のしきたりで、身請けされるまで一切自由が認められない花魁の性ゆえ、澪と会うことも叶わないあさひ大夫は、一旦覗かせた顔をすっと引っ込め、右手だけ出して狐の形を手まねて「狐はコンコン、涙もコンコン」と澪に聞こえるようにつぶやく。それを見つけた澪も、同じ仕草で応える。これは幼少期の2人が互いにしていた、思い出の仕草だったのである。互いに涙を流しながらそれでも笑顔で「狐はコンコン、涙もコンコン」と唱和する。これは実はポスターのビジュアルだったりするのだが、涙を堪えるのが精いっぱいだった。

 

 こちらがポスター・チラシと同じビジュアルのパンフレット表紙。まさにこのビジュアルこそ第二の泣かせのポイントそのものである。ちなみにこのパンフ、価格が\1,000とえらく値が張ったが、中にはオリコミ付録で「澪の料理レシピ」なる小冊子がついているなど、ここらあたりは「角川商法健在なり!」って言ったところだろうか……(;^_^A

 

 

 最後はラストシーン。仮にあさひ大夫を身請けして自由にさせるためには、4千両という途方もない金が必要だと知らされた澪は、それでもいつかその額を集めて、あさひ大夫こと野江を自由の身にさせることを決意する。吉原の遊女たちは定期的にまつりを開催し、皆狐面を身につけて街を練り歩くのだが、その際に山車に乗った幻の花魁・あさひ大夫は、唯一面を取らない。そんなまつりの日、澪は又次から、その街道にあるうらぶれた稲荷神社の前で待つように告げられる。「自分が出来る精一杯だ」という言葉と共に。言われるままに澪が神社の前で待っていると、祭りの列から不自然に彼女を見つめている狐面の遊女の存在が。やがてその遊女は列を離れ、一直線に澪に向かって駆け寄ってくる。驚く澪。するとその遊女は立ち止まるなり、片手で狐の形をして「狐はコンコン」と仕草する。思わず大粒の涙を流す澪。そこで、遊女はためらいがちに一瞬その面を取る。そこにあったのは(山車に乗っているはずの)あさひ大夫・野江の姿。思わず歩み寄ろうとする澪だったが、野江はすぐに踵を返し、背中越しに「狐はコンコン、涙もコンコン」とつぶやいて、再び一目散に祭りの列に消えていく。それを胸いっぱいに見守る澪。山車のあさひ大夫だけが面を取らないという設定は、このラストに向けての伏線(それ故“替え玉”が可能)だったのだ。ここが一番の泣かせ処だったかな。実は、もう吉原のまつりのシーンが始まった時点で、観る側とすれば「くるぞ! くるぞ!」って、身構えて、それでも泣けてしまった。しかもそのシーンの直後、タイトルバックに至る僅かなシーンに、あの上方の思い出の橋で、現在の澪と野江が並んでいる姿が、いかにも「合成です」と言わんばかりの青空を背景に登場する。これは明らかに現実では叶わない2人の儚い“夢”を映像化したシーンであり、ここに角川春樹監督の果てしない“やさしさ”を感じ取ることができた。

 

 それにしても、上記の3つの“泣かせのポイント”なんて、自然発生的に涙が流れるのではなく、明らかに「ここで泣かせよう!」という明快な意図のもと、“これが映画の方程式だ”といわんばかりに、緻密に計算されて演出されている節がある。でもそれにまんまとハマってしまう心地よさもまたあるわけで、これこそ20世紀の“外連味”たっぷりな映画といえるのかもしれない。

 

 そういえば、これは多少穿った見方かもしれないが、全編を通して、最新作なのにどこか昭和の香り、それも角川(春樹事務所)映画全盛期の映画の雰囲気を感じ取ってしまった。映像も、移動撮影は巧みに使用されていたり、映画のスクリーンを意識した引きのカットなどもあったが、アングル的には実にオーソドックスで、奇をてらったカットはまずなかったように見えた。だがそんなところに言いようのない懐かしさと安定感を感じることができた。まさに本作はあの全盛期の角川映画の再来といっていい。だから実に楽しめた。もう、意外なくらいに(;^_^A

 

 本作における主人公の2人。澪役の松本穂香とあさひ太夫役の奈緒は実によかった。松本穂香は朴訥で一直線な演技ながら、それが一途な澪のキャラクターにマッチしていたし、あの円らな大きな瞳は説得力抜群だった。また奈緒は、どうしても『あなたの番です』のサイコバス然とした印象が強烈だったものの、今回は実にどっしりと腰の据わった演技を披露してくれていて、『あな番』では小悪魔的とさえ見えた笑顔も、本作ではいかにも爽やかで且つ悲哀に充ちていて見事に作品世界にマッチしていたと思う。ほぼ新人に近いこの二人を、本作の主役に抜擢した角川監督の慧眼にはただただ感服するしかない。

 

 脇を固める共演者は、あたかも「角川春樹“監督”の最期を看取る」かのように、往年の角川映画を彩った俳優陣が集結している。前述の「つる屋」店主・種市が『金田一耕助』シリーズの石坂浩二、「登龍楼」の采女宗馬に『野獣死すべし』の鹿賀丈史、易者の水原東西に『蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜』の反町隆史、天満一兆庵の女将・芳(ご寮さん)に同じく『蒼き狼』の若村麻由美遊郭の料理番・又次に『男たちの大和』の中村獅童、他にも小松原の上司・駒沢に『天と地と』の榎木孝明、「つる屋」で澪たちを助けるおりょうに『スローなブギにしてくれ』の浅野温子滝沢馬琴の妻・お百に言わずと知れた「角川三人娘」の薬師丸ひろ子、また「つる屋」常連客の妻・お満に『伊賀忍法帖』『晴れときごき殺人』の渡辺典子、「つる屋」の常連客の一人・清八に『キャバレー』の野村宏伸が、それぞれ出演している。まるで「角川映画」同窓会の様相を呈している。中でも『里見八犬伝』主演の薬師丸ひろ子が、その原作者である馬琴の妻を演じているのは実に洒落が効いているし、野村宏伸は短い出演シーンながら相変わらず演技が下手だった(;^_^A

 

 そこに、滝沢馬琴(清右ヱ門)役の藤井隆、小松原役の窪塚洋介、町医者の永田役の小関裕太といった角川“ニューカマー”が名を連ね、そういった錚々たるメンバーが、角川春樹監督の絶妙なタクトによって見事に演じ、一大感動巨編に仕上がっていた。今まで角川監督は「素人のくせに“大言壮語”して粋がって、その分プロのスタッフを振り回している」なんて勝手なイメージを持っていた。確かに初期はそうだったかもしれないが、今回の『みをつくし料理帖』を観るにつけ、監督の映画に対する謙虚な姿勢と、緻密な計算に裏付けられた演出の妙、そして何よりも“娯楽映画”に仕上げようとする心意気が十二分に伝わってきて、今までの角川監督に対する一方的な印象を恥じる思いだった。

 

 最初に「20世紀にあれだけ世間を騒がせたスペクタクル映画を数多プロデュースした氏が、その最後に選んだのが、江戸時代を舞台にした等身大の人情劇だっとは」云々と書いたが、実は本作は単なる人情劇を超えた、まさに壮大な感動のスペクタクル巨編に仕上がっていたと思う。確かに、全盛期なら、本作では短くサラッと描いていた大坂・大水のシーンも、もっとダイナミックなカタストロフィーとして描いていたかもしれないが、それを差し引いても、これでもかと畳みかけるような感動と人情の波、そして力強く何事にも立ち向かう澪の生きざまなど、まさにスペクタクルの名に恥じない、そして「最後の監督作品」にふさわしい、監督自身にとってもそれが本望と思えるだけの映画だったと思う。また何度も観返したい作品だった。

 

 私も出来ることなら、最後の作品を撮る時には、過去に関わったスタッフキャストを結集して、こんな幸せな雰囲気で映画が撮れたらって、切に願ったね(;^_^A