『緋牡丹博徒』と藤純子の狭間に
先日、年始の東映チャンネル無料放送を話題にしたが、その折に、久しぶりに『緋牡丹博徒花札勝負』を観た。きちんと最初から最後まで観たのは、おそらくかれこれ四半世紀近く前の初見以来だったように記憶しているが、未だにいくつものセリフを映像に合わせて諳んじられるくらい、微細にわたりしっかり覚えていたのは、我ながら可笑しかった(;^_^A 本作に関しては、初めて間がない「yahoo!ブログ」時代に、話題にしたことがあった。
ところで、この作品の魅力に関しては、既に上のブログで十分語っているので(;^_^A、今回は、この度の観賞を通して感じたことを……
この『緋牡丹博徒』シリーズの、ヒロインアクション的な特徴としては、「姿形は女性のままで、男性の如く振舞う」というキャラ設定にある。亡き父の遺志を継いで矢野組の再興を目指す「緋牡丹のお竜」こと矢野竜子は、父の墓前で「これからは女を捨てる」と誓う。だから、仁義を切るときにも恥じらうことなく男のように大股開いて腰を落とし、九州訛りを巧みに使い、言動にも女性らしさはほとんど感じられない。しかし、演じる藤純子(富司純子)は、いくらセリフや演技の上で「女を捨てた」といっても、女性の色香をたっぷりと含んだ女性である。日本におけるヒロインの歴史は、男性の「女形」による「演技としての女性」に始まって、美空ひばりの時代劇や「女剣劇」に象徴されるような「男装の麗人」へと受け継がれ、「緋牡丹のお竜」の“精神的ジェンダーフリー”を経て、ストレートに強い女性が闘う志穂美の悦ちゃん辺りに昇華されて今日を迎えている。
さて、そんなエポックメイキング的なシリーズである『緋牡丹博徒』 及び「お竜姐さん」だが、その人気が絶頂の時、演じる藤純子は結婚によって女優を(一時)引退し、梨園の世界に身を委ねることになる。彼女の結婚式に招待された東映の関係者はスピーチで口々に彼女の引退を惜しみ、さながら新郎に対する“糾弾会”の様相を呈していたらしい(;^_^A もっとも、別の見方をすれば、藤純子自身、女だてらに侠客の道に生きる「お竜姐さん」のキャラを演じることに疲れていたんではないか、なんて思ったりもする。実は、今回久しぶりに『花札勝負』を観た際に、藤純子の演技にそこはかとなく“無理”を感じ、そんなことを考えたのである。そこで立てた仮説は、「藤純子はこの『お竜姐さん』の役を快く思っておらず、どこか無理をして演じていた。それ故、その“窮屈さ”“ストイックさ”が逆に彼女を妖艶なキャラクターに仕立て上げたのではないか」というものである。彼女は別の仁侠映画で、「幸薄い遊女」などのキャラクターを演じているが、本来妖艶さをうんと醸し出していそうなそれら“女性キャラ”も、「女を捨てた」と嘯き、それなりの身に振り方をする「お竜姐さん」の独特の色香には及んでいないように思えて仕方がない。
話は変わるが、我がアクションヒロインのレジェンドといっていい『スケバン刑事』の斉藤由貴も、決してあの麻宮サキ役を嬉々として演じていたわけではないそうだ。そう考えると、「どうして『スケバン刑事』はヒロインアクション的にあんなに面白かったのか」という命題の答えが、意外にも『緋牡丹博徒』シリーズにあるのかもしれないな(;^_^A