神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

今の日本は今や“羽代市”……

 CSで『野生の証明』を放映していた。

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 この作品は、私が中三の昭和53年に公開されたと記憶している。勿論当時封切上映を、今は亡き広島東映で観賞した記憶があるが、その時は上映途中入場で後半を観、次の上映を待って残りの前半を観るという形の観賞体験だった。当時の入れ替え制がなかった地方上映会の形態が推し量られる話ではあるが、それにしても、他の作品ならば2回目の上映で最後に観るはずながら、本作はきっちりと入場した切れ目でさっさと劇場を後にした。

 それというのも、当時の自分が人生において最悪の状況下にあったことと、本作の世界観があまりにも絶望的だったことが変な意味でリンクしていて、とてもこの作品を“義理”以上に観たくない、との思いがあったんではないかと憶測する。だから、作品世界は殆ど記憶にないし、その後いくらでもあった鑑賞機会も、積極的に活用しようとの思いは起こらなかった。

 それで今回は思いがけずのCS観賞だった。当時は角川の文庫本が待ちきれず、初めてハードカバーの単行本を買ってまで原作を読もうとしたものだったが、大好きだった前作『人間の証明』のある種カタルシスある展開とはことなり、本作は原作の段階であまりにも絶望……その絶望感を豪華キャストと海外ロケでさらにスケールアップしてしまったのが、この映画だった。

 主演の高倉健は、本当ならば『人間の証明』の主人公・棟居刑事役を熱望していたものの、若年の松田優作にその座を奪われ、そんないきさつの果てに、その次回作とも言うべき『野生の証明』の主人公・味沢役に抜擢されたエピソードや、この作品のオーディションで見事主演を射止めた薬師丸博子(後のひろ子)にまつわるエピソードは、くだんの角川春樹自伝とも言うべき「いつかギラギラする日」にも詳細が書かれてはいるが、それでもこの作品の持つ閉塞感・圧迫感・やるせなさは変な意味で徹底していて、それがある種のトラウマとなり、どうしても『野生の証明』を見直す勇気を奪っていたようだ。

 そんな中、思いがけず出会った『野生の証明』なんだが、やっぱり観るシーン観るシーン、あたかも初見のような不思議な感覚にとられた。劇中梅宮辰夫演じるヤクザの差し金で、健さんとひろ子の許へダンプが突っ込むシーンで、それをかわした健さんとひろ子が抱き合うシーンは何となく覚えていたけど、これって当時のCFで流れていたカットだったんだよね……

 健さんをはじめ、夏八木勲松方弘樹(本作が不倫で干されていた彼の本格復帰作と記憶している)、三國連太郎丹波哲郎ハナ肇といった、既に鬼籍に入った名優たちが大挙して参加し、デビューしたての薬師丸ひろ子のセーラー服姿がやけに初々しく、今や“老優”の域に達した館ひろしの若々しい中途半端なチンピラぶりもギラギラしていて実に面白かったな(;^_^A

 それにしても、本作でF県羽代市を牛耳る大場一成をABE、彼ら大場グループに忖度する「羽代新報」を讀賣・産経・NHKに置き換えると、あまりの類似点にゾッとする……遙か30年以上前に推理作家・森村誠一氏が継承した事態が、今や国政のレベルで浸食しているとは……なんとも嘆かわしい話である。果たしてこの国に、有権者に、“自浄”能力はあるのだろうか……てなことを書くと“共謀罪”か?