神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

敗因は“ニッポン(日本)対ゴジラ”

 日本国内で大ヒットを遂げ、かの日本アカデミー賞でも7冠に輝いた『シン・ゴジラ』。しかしながら欧州を筆頭に海外では軒並み観客動員で苦戦しているようだ。

 この現実に関してはおよそ予想はついた。とはいっても、『シン・ゴジラ』がつまらなかったからではない。今でも非常によくできた映画だと思うし、日本で多くの観客動員を誇り、数多の称賛を得たことも決して間違いではない。それでは何故同じような結果を海外では得られなかったのか………?

 その理由として、私は以前、劇中の会議の多さ、とりわけ専門用語が飛び交い、ことがなかなか進捗せず、しかも日本独特の事情が錯綜するまどろっこしさは、欧米ではウケないだろうと考えていた。実際、これも書いたことがあるが、米ベネディクトプロと共同制作した『怪獣大戦争』ではいきなりP1号のX星着陸のシーンから、『フランケンシュタイン対地底怪獣』では戦火渦巻くのベルリン郊外から、『サンダ対ガイラ」では洋上での大蛸対ガイラの死闘から、映画はスタートする。従来の特撮怪獣映画にあったまどろっこしい導入部がない。これはベネディクトプロ・サパーシュタインからの要望でもあった。こっちの方が欧米でのウケがいいかららしい。

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 しかし、ここに来てもう一つ、「日本ではヒットしたが海外ではさっぱり」の理由で思いついたものがある。それは本作が「現実対虚構」ではなく、真に「日本(ニッポン)対ゴジラ」……もっと突っ込んでいえば「“東京”対ゴジラ」の構図で描かれている点だ。今までのゴジラをはじめとする怪獣映画は、その舞台が例え日本国内であっても、漠然と「人類対ゴジラ」というテーマで描かれていたと思う。シリーズ中幾度も「ゴジラ他怪獣撃滅のため核兵器の使用を」という話題が劇中上がるが、大抵出た先から軽くいなされてしまうってのがパターンであった。まあ『ゴジラ』(1984)ではより具体的にテーマ化され、小林桂樹演じる総理大臣が「非核三原則」を持ち出したり、実際誤ってソ連(古いねぇ(;^_^A )の核弾頭が新宿に向かって発射されたり(すんでのところで、米軍嘉手納基地!?から発射されたABMによって、被爆を避けられる)したけど、やはり核兵器の扱いは小さかった。だから、まだ日本国内の問題とまではならなかった訳だ。

 翻って『シン・ゴジラ』の場合は、後半、ゴジラを日本に東京に封じ込めるために、国連決議として東京への核攻撃が決定される。もちろん期限内に安全地帯までの全都民の避難は事実上不可能で、かつそんなことになれば日本の都市機能はおろか国家の維持さえままならない事態に陥る。そんな中、決死の覚悟で“ヤシオリ作戦”に望んだ主人公らが目指したのは、文字通り、核攻撃から「日本を、東京を守る闘い」だった。これは“3.11”を体験し、より国民同士の絆というものに敏感になり、また昨今の不景気ですっかり自信をなくしてしまったニッポン人にとって“熱くなれる”展開であることは想像に難くない。だから日本国内でこれだけヒットしたのだろう。

 では逆に、日本人が「中国を、北京を守る闘い」「韓国を、ソウルを守る闘い」「北朝鮮を、ピョンヤンを守る闘い」「フィリッピンの、マニラを守る闘い」を観て、同じように興奮できるだろうか? 結構醒めた視点になるんじゃないかな。ことアメリカでは「アメリカを、合衆国を守る闘い」を描いたSF映画を何の臆面もなく量産して垂れ流しているが、ここには「アメリカ=世界」というアメリカ人の奢りと共に、大量の情報を押しつけられ、いつの間にかそんなモンだと思いこまされている世界人民があって、何とか成り立っているだけである。

 そんなわけで今回の『シン・ゴジラ』はそのキャッチコピーに偽りなく、“日本人が燃える(萌える)”映画であった。だから欧州での不調はもちろん、この手のまどろっこしさにも多少寛容なアジア市場でも、上記のような理由で、ヒットは望めないだろう。どんなに怪獣特撮を堪能しようとしても、そこかしこに“ニッポン”が生臭く匂ってくるだろうから。逆にどの国の為政者も、自国版“シン・ゴジラ”の制作を命令するかも(;^_^A

 でもね、本当はこんな映画もいいんだよ。別に常に海外市場を目指さなくてもいい。日本国内で喜んでもらえる作品をもっともっと作ればいいんだよ。国内で80億も儲けられたら十分だよ。もちろん、それが悪質な政治的プロパガンダ映画になっては絶対いけないけど…………

 もしどうしても海外市場を目指したいのならば、それこそ日本国内マニアの意見など全く無視して、『ゴジラ対メガロ』を純粋にリメイクすればいいヾ(ーー )   きっとウケるよ(;^_^A