神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

マイトガイの『多羅尾伴内』!

 片岡千恵蔵御大の名演技で、大映から東映へと制作会社は移り変わりながら、戦後の邦画界を支えた超大型娯楽シリーズだった『多羅尾伴内』。時代劇の『雪乃丞変化』に端を発し、その後、天知茂主演の「江戸川乱歩美女シリーズ」、志穂美悦子主演の『華麗なる追跡」から、果てはアニメ(&実写)の『キューティハニー』に至るまで、邦画娯楽界に燦然と輝く「変化もの」の金字塔として、今なお光を放つこの『多羅尾伴内』シリーズが、オイルショック直後の混沌とした70年代に復活した。それこそ、鈴木則文監督・小林旭主演によるリメイク版『多羅尾伴内』である。
 
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 オリジナルのテイストをそのままに、それでいて現代社会のペーストを織り込んで、世に送り出された“マイトガイの『多羅尾伴内』”。“復讐劇”という“いかにも日本映画的”なテーマを軸にしつつも、アクション、カーチェイス、グロテスク、そしてムード歌謡といった、娯楽の要素の全てをつぎ込んだ、一大エンターティメント、として仕上がっている。
 
 プロ野球「日報レッドソックス」の主砲・高塚が試合中何者かに殺害される。その現場に居合わせたしがない私立探偵・多羅尾伴内は、その事件を追ううちに、“キツネ男”に脅迫される医科大院長・木俣の依頼を受け、事件に更に深く関わっていく。
 
 事件の鍵を握るこの木俣という人物は、広島の原爆で家族を失うなど不遇な過去を背負った苦労人、という設定。この役を“『惑星大戦争』の滝川博士(「轟天」艦長)”こと邦画界の重鎮・池部良が演じて「いかにも善人」然としているのだが、その腹心の部下が鈴木則文作品の常連悪役・天津敏って辺りから、俄然胡散臭くなっていく。また、秘書の夏樹陽子は眼鏡の下に一癖も二癖もありそうな表情を隠し持っており、この“チーム”(実際はチームにならないが)と“マイトガイ”藤村大造との対決がドラマのメインとなっていく。安部徹・石橋雅史・中田博久といった、本来ならばピンで悪のトップが張れそうな面々も、今回ばかりは単なる傍観者に過ぎない。
 
 木俣のドラ息子役を務めた江木俊夫の、胸ぐらを掴んで張り倒したくなるような、我が儘・横柄ぶりは、「ああ、これが「マグマ大使」マモル少年のなれの果てか」と思うと感慨深かったね。
  
 さて、今回の映画でマイトガイは「片眼の運転手」「流しの歌い手」「手品好きのキザな紳士」「白バイの警官」「怪人せむし男」「私立探偵多羅尾伴内」、そして実体でもある“正義と真実の使徒”「藤村大造」と、“7つの顔を持つ男”の名に恥じない、文字通り「7変化」を遂げるわけだが、その活躍度合いは当然ながらまちまちだ。
 
 例えば「流しの歌い手」や「白バイの警官」は余りストーリーに絡むことが無く、おそらく“7変化要員”の感がある(もっとも「流し」は十八番の「昔の名前で出ています」を盛り場で熱唱し、「白バイ警官」のカーチェイスは見所の一つでもあったが……)
 
 一方、意外に大活躍だったのが「怪人せむし男」。後半からクライマックスに至るまで、ほぼ独壇場だった。『多羅尾伴内』といえば“観客にはミエミエの変装ながら、登場人物たちは悉くダマされる”ってのが究極の“お約束”だが、殊この「せむし男」だけは、「本当にマイトガイ?」と見紛うほどの見事な変装ぶりだった。しかも、どこまで吹き替えスタントなのか分からないが、実に見事な身のこなしには舌を巻いた。確か、この変装のためにマイトガイは服の下に布団のようなものを背負っていたと聞く。勿論吹き替えスタントがあったとしても、スタントマンもそんな窮屈な恰好であの激しいアクションをこなしたのだろう。しかも、せむし男のスタントはマイトガイ自身が演じた、と書いてあるネット上のサイトもあるし……とにかく凄い!の一言。クライマックスの口上も手伝って、本作では一番かっこよかったよ!
 
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「地獄から来た、閻魔さまの下僕ですよ……ハッハッハッハッ……今宵のこの祝言が、いかに血の呪いに充ちたものかを皆さんに知らせるためにやってきたんです」
 
「……あなたこそ、教育者の仮面を被った憎むべき犯罪者、殺人鬼だ!」
 
 勿論、あらゆる変装を解いて、颯爽と登場する藤村大造のきざったらしさも格別だ。なんといってもラストの
 
「人生の真実が、犯罪という光でしか映し出されない世の中が続く限り、私はまた帰ってくる……」
 
この台詞に勝るものはないね!
 
 ほかにも、冒頭のプロ野球公式戦のシーンのダイナミックさ(実際の後楽園球場で撮影され、「讀賣vsヤクルト」の試合風景を巧みにコラージュ)や、歌手・穂高ルミが歌謡ショーの最中舞台上で宙づりにされ、ピアノ線で胴体がまっぷたつになる残虐描写など、非常に大がかりな撮影が成されていて、いやが上にも“大作”の臭いがぷんぷん漂う作りになっている。これだけのシーンがありながら、鈴木則文監督のお家芸とも言うべき「お色気」シーンがないのは、本作を本気で一般ウケする一大エンターティナーに仕立てる意図が制作会社・東映にあったに相違ない。
 
 語り尽くせばキリがないほど、本作は娯楽の精神、娯楽の描写に充ち満ちているが、今回はここまで。今度は第2作『鬼面村の惨劇』について、いずれまた言及してみたい。