神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

三田村首相 カムバック!

 今日CSで『ゴジラ』(1984年版)を観た。1976年3月の『メカゴジラの逆襲』以降、長くスクリーンから姿を消したゴジラの待望の新作だった。それこそ「コロコロコミック」で展開された“ドラえもんアニメ復活”運動を軽く凌駕するような熱気・喧噪の下、満を持して公開された、というイメージがつきまとう。かくいう私も、大学の講義をほっぽって、初日封切りの劇場に足を運んだモノだった(よって封切り初回上映を観賞!)。
 
 正直、数多の“粗”は、設定から技術に至るまでかなり気にはなった。「何でソナーをぶら下げているヘリが真下のゴジラに気がつかないのか?」「“霧”のせいでゴジラの上陸に気づかなかったなんて、時代設定は「キスカ撤収作戦」の太平洋戦争時か? レーダーは?」「そもそも生物のゴジラが“放射能”をエネルギー源にじているとは……いつから“ガメラ”になったんだ……『地球最大の決戦』の時には鯨の群れを追っかけてただろ」「生物が己の生命よりも帰巣本能を優先させるなんてありえんだろ」etc 今思うと“つっこみどころ満載”のストーリーながら、折角“特撮不毛の時代に誕生した貴重なSF特撮として、同じ境遇だった『惑星大戦争』と共に、当時必死に肯定し続けたことを覚えている。
 
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 そんな84年版の『ゴジラ』だが、一つ感心するのは、時の総理大臣・三田村首相(小林桂樹)の劇中の言動だ。「ゴジラ」という未曾有の事態を、予てより保有していた戦略核の格好の使用チャンスと捉えた米ソ(当時の世相ですな)の特使を前に、我が国の「非核三原則」を盾に頑として使用を拒む三田村首相の姿は、アラが目立つ本作の中では唯一と言っていい感動的なシーンだ。劇中彼が言う、
 
非核三原則」が日本のエゴならば、核兵器を使用したがることこそ、米ソ両国のエゴではないでしょうか…
 
 これこそ、被爆体験をした国の元首が口にすべきことだろう。時の“A・B・E・193”は、その爪の垢を煎じて飲むべし! というかおらんくなって!
 
 それにしても、この三田村首相といい、都民の避難場所確保のため皇居開場を宮内庁に懇願する『日本沈没』(勿論1974年版)の山本首相(丹波哲郎)といい、“ネトウヨフジサンケイグループに“ケツをかかれた”東宝”の獲った特撮映画にしては、筋の通った総理大臣像が描かれていたなぁ……少なくとも20世紀は……