神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

映画の“カタルシス”

 映画って、“カタルシス”が重要だって、思う。
 
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 勿論、映画の表現技法・テーマは千差万別。映画は芸術(アート)なのか娯楽(エンターティメント)なのか、そんなせめぎ合いも日常茶飯事で、とどのつまり“これこそ映画だ”なんて定義は存在しないと言っていい。
 
 ただ、時として権力のプロバカンタに利用されるくらい、映画というメディアには、とてつもない威力も魔力も潜んでいる。まさに“取り扱い注意”な、それでいて麻薬のように甘美な、恐ろしくも魅力的なメディアだといえるのではないのだろうか。
 
 それ故、「映画は楽しいもの」であってほしい、と言うのが私のポリシーだ。それはどんな形であってもいい。それぞれ鑑賞者が満足すればいいのだから。
 
 たとえばピンク映画。「ピンクなんてけしからん。映画を冒涜する気か!」と怒りをもって否定する人もいるだろう。でもそんな「天の声」を上げようとも、そんなヌード満載の「ピンク映画」をこよなく愛する人がいるはずだ。ピンク映画を楽しみにし、それを人生の支えとしている人だっている。だから、特定のジャンルを全否定することはあってはならないと思っている(悪辣な政治的宗教的プロバカンタだけはいただけないものの)。
 
 “高尚な映画人”かとかく眉をひそめる“予定調和”な娯楽映画だが、少なくとも観客に不安は与えない。敢えて不条理な映画を公開して、観客を混乱させて一人悦にいる制作者は、実は大変身勝手で利己的で無責任だと思う。まあ、全否定はしないけれど。
 
 でも、「判断は観客に委ねる」と銘打って、自分の思想・技法を“芸術”の名の下にを押しつける映画ばかりではなく、そんな高尚な方々からは見下されようとも、観客にストレスを与えない“予定調和”な展開、“勧善懲悪”のカタルシスを与える映画だって、価値はあるんじゃないかな。実際、首都圏でも「水戸黄門」の再放送が絶えず流れていることからも明白だ。
 
 芸術的な映画を否定はしない。その種の映画を好んで観る観客はきっといるわけだから。ただそんな側にいる人も、もう“予定調和な映画”を“ダメ”と断罪するのはやめにしないか。それぞれの映画がこの世に存在し、それを好んで観てくれる人が一人でもいれば、それは尊いことなのだから。ましてやここまで世の中が絶望的に陰惨になってきたのだから、せめて映画くらい(自主を含めて)、もって人々を楽しませようよ。ね。
 
 今は映画一本撮ることもままならない、それは現状では物理(時間)的に未来永劫続きそうな、そんな辛い日々を送っているので、実際に我が道を信じて映画を撮る、と言う事態はもう難しいが、それでも大好きな映画を、それも“予定調和”“感電懲悪”な作品を撮りたいと、今も願っている。
 
 ブログ600更新記念の回に、我が映画に対する想いを込めて。