神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

『おかあさんの被爆ピアノ』~タイトルに偽りなし!~

 もう数年前の話なんだけれど、部でドキュメントを撮ることになって、その題材として「被爆ピアノ」を選んだことがある。これはメンバーにピアノに精通している子がいて、その子のピアノの先生が毎年平和公園被爆ピアノのコンサートを開いていることがきっかけで、その先生を通して、被爆ピアノを取り扱っている「矢川ピアノ工房」の矢川光則さんに紹介の労をとってもらった。そしてその年の8月6日、朝から広島市安佐南区にある「矢川ピアノ工房」で取材をさせてもらい、平和公園に届ける被爆ピアノの積み込みからトラックの出発まで撮影させてもらって、それから一路我々も平和公園に向かい、先生の演奏シーンを撮影して、その日の取材を終えた。しかしながら、その後諸事情あって(制作のタイミングを逸して)、結局そのドキュメントは未完のままに終わってしまった。我が指導力のなさを嘆くしかなかったり、関係者に対して非常に申し訳ない思いを抱くと共に、これだけの貴重な映像や取材データがあっただけに、今思っても残念な気持ちがする。

 

取材の際に頂いた矢川さんの名刺

 

 そんないきさつもあって、「被爆ピアノ」にはそれ相応の思い入れがあったりするんだけど、その矢川光則さんと被爆ピアノをテーマにした映画『おかあさんの被爆ピアノ』は、その封切時に観賞のタイミングを失って、ずっと未見のままだった。それが、先月イオンシネマ西風新都で再公開を一日一回やっていることを知り、この作品を、三年目に突入する“月に一度は劇場で映画観”2021年の第一弾(1月分)に選んだ。

 

 

 この作品の主人公は矢川光則さんその人であり、演者は佐野史郎だが、役名も「矢川」で(企画時は別名)、登場する被爆ピアノも運搬用のトラックも、会社である「矢川ピアノ工房」も、そのままが使用されている。そこに被爆ピアノを巡る架空のストーリーが絡むといった、現実と虚構が幾重にも重なりあって物語は進行していく。

 

 佐野史郎演じるピアノ調律士の矢川は、爆心地の半径3キロ以内で被爆した当時のピアノ、通称「被爆ピアノ」の管理・修繕を一手に引き受け、それを用いてのコンサートを開くために全国を奔走している。そんな矢川のもとに、また一台の被爆ピアノが寄贈された。母の死をきっかけに、東京在住の江口久美子(森口瑤子)が、広島の実家に残された母の形見のピアノを提供したのである。しかし、現在大学で幼児教育を専攻している娘の菜々子(武藤十夢)は自分に何も言わずピアノを寄贈した久美子に不満を持つ。

 

 この寄贈がきっかけで、菜々子は、たまたま関東へコンサート用のピアノを運搬してきた矢川のものを訪れる。その際は簡単な挨拶で終わったものの、それをきっかけに、菜々子は祖母や母の故郷である広島や被爆ピアノについて考えるようになる。しかし母の久美子はそんな菜々子の行動を疎ましく思うのであった。

 

 そんなある日、再び関東に訪れた矢川のもとを訪ねた菜々子は、このトラックに載せて自分を広島に連れて行ってほしいと懇願する。困惑し、一度はトラックに乗せたものの、やはり彼女を家に連れて帰ろうと、母の久美子に連絡を取る矢川だったが、その時の「娘に広島を関わらせたくない」との久美子の言葉に思うところがあった矢川は、結局そのまま菜々子を広島まで連れていくことを決意する。

 

 広島にたどり着いた菜々子は、早速今は無人となった祖母の実家にやってくる。その頃、矢川の行動に不信感を募らせる久美子は、改めて夫の公平(宮川一朗太)に、菜々子を広島に関わらせたくない旨を語る。しかし、そんな広島出身の久美子の思いも一緒に共有したいと語る公平に、久美子は広島の、被爆者である母や被爆二世である自分がどのような思いで生きてきたかを言って聞かせるのであった。

 

 これといった目的もなく広島にやってきた菜々子だったが、矢川に誘われるままに、元安川の河岸で行われる被爆ピアノを使った朗読劇を観賞したり、老人から被爆体験を聞いたりしながら、この町で何が起こったのか、母や祖母が抱える闇は何なのか、について改めて思いを巡らせていく。そして矢川からは、今年の8月6日に、被爆ピアノを弾いてみないか、と誘われる。

 

 翌朝、祖母の家で寝ていた菜々子は、部屋のカセットデッキから流れるベートーヴェンの「悲愴」のピアノの調べに思わず起き上がる。するとそこには久美子の姿が。そこで久美子は亡き母(菜々子の祖母)からピアノのレッスンを受けていたこと、そして今流れている「悲愴」は自分の中学時代の演奏だと言って聞かせる。

 

 その後、二人は「矢川ピアノ工房」を訪れる。そこで矢川は久美子に託された被爆ピアノを調整していたが、長年弾いていなかったことが災いして、きちんと演奏できるかわからない状態であるという。そこで菜々子は、8月6日に被爆ピアノを弾くことを決意し、その際に何とか祖母の被爆ピアノが弾きたいと矢川に懇願する。

 

 東京に帰ってから、菜々子は大学の親友に、「悲愴」が弾けるようになりたいとレッスンを志願する。難しい曲故、最初はその実現を危ぶむ親友だったが、菜々子の、何かに取り憑かれたかのような鬼気迫る練習ぶりで、不可能と思われた「悲愴」をそれなりに奏でることが出来るようになった。

 

 そして迎えた8月6日の夕刻。原爆ドームの前に設置された被爆ピアノの前で、ピアノコンサートが始まる。同じピアノに奏者が次々と交代しながら曲を奏でてゆく。そして菜々子に順番が回ってきた。祖母の形見の譜面を広げ、静かに「悲愴」を奏でてゆく。しかし、極度の緊張感からか、演奏が途中で止まってしまう。途方に暮れる菜々子。その窮地に、急遽久美子がピアノに向かい、菜々子と連弾の形で、「悲愴」を最後まで奏で上げる。その時、ピアノの前の菜々子の目には、観客の隅に祖母の姿が見えた………

 

 本作品のタイトルは、前述のとおり『おかあさんの被爆ピアノ』である。しかし実際には主人公・菜々子の「おばあちゃんの被爆ピアノ」である。正直なところ、「さて、タイトルは『おかあさんの』だったかのぉ? 『おばあちゃんの』だったかのぉ?」なんて観賞中に迷ったりもした。そんな物語展開だった。また、クライマックスの連弾のシーンも、実際は殆ど久美子の演奏で、肝心の菜々子は何もできないまま佇んでいる、っていった感じだった。本来ならば、どんな形であれ、彼女が演奏しきれないと何の映画的カタルシスもない。制作サイド(監督)は、なんでこんなクライマックスを用意しただろう、って首をかしげてしまった。だがそれは後に理解できた。そうだ、この映画のタイトルは『“おかあさん”の被爆ピアノ』だった。つまり、菜々子の“おかあさん”である久美子にとって、この被爆ピアノは“おかあさん”のピアノである。だから、この物語は、実は被爆二世である母の久美子の物語だったんだ、って考えると、クライマックスの演出も理解できる。本作のテーマを「原爆」とするならば、まったく無知だった祖母や母、そして自分のルーツである広島について、深く考えだす菜々子の成長よりも、被爆2世である自分の出自に対する不安から、家族にさえ広島を“封印”してきた久美子が、娘や矢川を通して、改めて広島と向き合っていこうとする姿こそ、本作のとても重要なテーマであるはずだ。あのクライマックスで、敢えて久美子に“花を持たせる”演出は、「原爆」というテーマをより鮮明に描きだすための、そして“再生”の物語に繋げてゆく、そんな意味合いを持っていたのかもしれない。

 

 実際の矢川さんはあんなぶっきらぼうな人ではなかったが(;^_^A、佐野史郎の演技もなかなか情熱的で味わい深かった。でも佐野史郎もあんな渋い役が板につく俳優になってきたんだなぁ(;^_^A  それにしても、今回の映画は、とあるドキュメント(取材・インタビュー)がきっかけとなって企画されたんだそうだ。でも決してドキュメントタッチで描かず、実在する(しかも“現役”の)人物を絡めた虚構の物語ってのがいい。しかもそれが広島の地を舞台に描かれる。何とも素晴らしいことだ。この“ドキュメント風劇映画”に適した題材は、この広島にもいくつも転がっている。また、そんな映画を観てみたいものだ。