神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

「最多勝」と思い出のサイン色紙

 まだ中学生だった頃、広島市北部の可部という町に住んでいて、ある時家の近くの、それも表通りに面していないこじんまりとした店で、急遽広島東洋カープの高橋里志投手と水沼四郎捕手のサイン会が開催された。しかも、別に何か購入が条件の“ひも付き”ではなく、純粋にサイン会だった。どうもその店の店主と水沼捕手が友人で、そのつてで実現したサイン会らしかった。

 

 私がプロ野球に目覚めたのは、1975年の広島東洋カープ初優勝の時、そして転居で可部の町を去ったのが1978年だったことを考えると、どうもこのサイン会は1977年のシーズンオフらしい。となると、件の高橋投手は、シーズン20勝を挙げてセントラルの最多勝投手になった年だ。そんなメモリアルな年に、地方都市である可部町の、それも大型スーパーでもない一店舗にサイン会をしてくれるなんて、今考えてもびっくりするような話だ。

 

 ただ、その後高橋里志投手がカープのエースとして君臨したかと思うと、そうではなく、その後も活躍を続けたもののこの年の成績を上回ることはなく、しかも日ハム・近鉄と球団を転々として、1986年に18年間のプロ野球生活にピリオドを打ったのだそうだ。

 

 最近になって、部屋の整理中に、そのサイン色紙が水沼捕手のものと一緒に段ボール箱の底から出てきた。かの「江夏の21球」を“演出”した捕手としてその知名度も高く、今も広島で居酒屋「しろう」を経営し、インディーズムービーにも出演している水沼氏と比べて、高橋投手は残念ながらカープでもつかの間の輝きしかなかった選手である。しかし私の中では、あの20勝の印象が鮮明で、歴史の中に埋もれさせてはならない選手だったと今も思っている。何といっても、色紙に並んでしっかり書いてある「広島東洋カープ」の文字にグッと来てしまう(だから今は、きちんと額縁に入れて大事にしまっている)。

 

 

 そんな高橋里志氏に、こんな形で改めて思いを馳せることになろうとは……時間は残酷である。今回の訃報に際し、改めて氏の功績をネットなどで調べたが、意外にも武骨で様々な武勇伝を持っていた選手だと知った。南海監督時代のノムさんからの鉄拳制裁事件や、江夏との“仁義なき確執”などなど、あの柔和な表情から想像もつかない気性の荒さを持った、文字通りの「闘将(ファイター)だったようだ。でもそんな出来事を知るにつけ、かの“キックの宮”こと宮本幸信投手と同様、逆に親近感が湧いてくる。それにしても、「広島市内の病院で死去」って、今も広島で暮らしていたのか……それに72歳って、まだまだこれから一花二花咲かせてもおかしくない年齢じゃないか。折角だからもっと広島のローカル番組で野球談議に花を咲かせてほしかったなぁ……合掌

 


広島OB高橋里志さん死去 72歳、肺がん 77年に最多勝
https://news.livedoor.com/article/detail/19636702/