神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

東京スタヂアム 運命の1971年

 既に今年度の日本シリーズが始まっているというのに、同じNPBのことでも、今回話題にするのは今からはるか50年近く前の出来事に関する私見である。

 

 先日、ベースボールマガジンの1コラムとして、張本勲氏が掲載していた記事で、1971年5月3日に起こった、半世紀経っても未だに破られるどころか追いついたことさえできていない大記録「5者連続ホームラン」に関する述懐が書かれていた。生憎この記事は有料記事なので、そのさわりしか読むことが叶わなかったが、この記録のことが気になって、ネットでいろいろ検索したら、なかなか興味深い事実をいくつか知ることが出来た。

 

張本勲コラム「私にとっても思い出深い東映の5者連続本塁打は、奇跡が続いて生まれた大記録だ」
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=106-20201123-0

 

 この試合は、今は亡き“光の球場”こと東京スタヂアムで憲法記念の日に開催されたロッテオリオンズ東映フライヤーズのカードで、しかもその「5者連続」は延長戦での出来事だったらしい。さらに言うならば、本来この試合は6-1でオリオンズが勝利してもおかしくなかった試合で、たまたま9回表2アウトランナーなしの状態で次打者が放ったゴロで一旦ゲームセットとなったものの、ジャッジミスでセーフになってから、その後思いがけない反撃で5点を奪い、それで延長戦となった、といういわくつきの試合だったのである。それが張本氏の見出しでいう「奇跡が続いて」という部分なのだろう。

 

 10回表に代打勝ち越し満塁ホームランを打って、「5者連続」の口火を切った作道 烝選手(残りの4人は、順に大下剛史大橋穣張本勲大杉勝男

 

 さて、今回このことを検索して私が最も興味を持ったのは、そんな“劇的”な展開よりも、この「5者連続」の舞台が東京スタヂアムだった、という点だった。それというもの、この東京スタヂアムは左中間および右中間が一直線で膨らみが全くないという特殊な構造故、「本塁打量産球場」と揶揄される球場だったからだ。それによってこの「5者連続ホームラン」の記録にケチがつくわけではないけれど、「なるほどそうか」という感慨は持ってしまった。

 

 ところで、そのフェンスのふくらみがない、という特殊構造が、結果的には、当時最新だったこの東京スタヂアムを僅か11年で解体の憂き目に遭わせた遠因になってしまった。それというのも、やがて経営難に陥った東京スタヂアムはこの大記録の翌年シーズンオフにロッテ球団に球場の売却譲渡を申し入れるが、奇しくもその時、翌年からオリオンズの監督を務めることになっていた金田正一氏が、投手出身監督故、本塁打が量産される同球場をフランチャイズにすることを猛烈に反対し、もともと買取に消極的だったロッテ球団の思惑も相まって、結局交渉は決裂、結果東京スタヂアムは閉鎖され、5年後の77年に解体されてしまった。

 

 

 思えば、この東京スタヂアムの建設を推進したのは、大映社長の永田雅一氏。当時すでに邦画界は斜陽が顕在化していたが、それでも建築を推進し、そんな意味では永田社長はパシフィックリーグの大恩人なんだけれど、結局東京スタヂアムの経営悪化と同様、本社大映も、かの大記録があった71年に倒産の憂き目に遭ってしまう。同様に71年は、円谷プロの『帰ってきたウルトラマン』が放映され、その第35話「残酷!光怪獣プリズ魔」と第51話「ウルトラ5つの誓い」で同スタヂアムがロケ地になっている。いろんな意味で、この1971年は、東京スタヂアムにとって運命の年だったといえるかも知れない。