神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

セーラー服の解放

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 「セーラー服は学園の戦闘服だ!」……これを究極的につきつめたものが『美少女戦士セーラームーン』だろう(笑)

 まだ若い頃、初めて『セーラームーン』なるアニメが始まることを知り、そのキャラクターの画を見たとき、えもいわれぬ“いかがわしさ”を感じてしまった。聞くところによると、主人公は『スケバン刑事』のようにセーラー服を着用するのではなく、文字通りセーラーコスチュームに“変身”するという。ではなぜセーラー服でなければならないのか? その理由に対する明確な答えは、未だに明示されていないと思う(もしかしたら既にされているのかも知れないが、一般にはまだ広まっていない)。

 そこで思った。その企画は少女だけでなくその父親層をも取り込もうとしているのではないか、と。「セーラー服」に対しては邪な願望と共にある種の“後ろめたさ”を感じてしまう世の父親たちも、「娘が好きなアニメのセーラームーンならば」と、子供を免罪符にして、若かりし頃の甘酸っぱい思いに存分に浸ることが出来る。

 勿論、この作品には原作の漫画が存在するが、制作会社はそこまで考えてこの原作のアニメ化を決意したのでは、いや、原作自体それを狙っていた(もしくは原作者の趣味)のではないか、と勘ぐってしまう。

 この『セーラームーン』には、『スケバン刑事』や往年の“女番(スケバン)映画”、そっして70年代に多く作られた青春ドラマに登場する「セーラー服の女子高生」に漂っていたある種の翳りが全くない。明るく清潔なセーラー像があるだけだ。

 冒頭に「セーラー服は戦闘服」云々と書いたが、このドラマは逆説的にセーラー服のイメージを“軍服”から解放してくれた、そんな役割を図らずも担っていたのではないか、と思う。