神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

『“改元”令の夜』に

 「改元」に浮かれかえる一日が終わろうとしている。別に世の中が変わったわけでもないのに、この浮かれっぷりは何だろう。その水面下で諸々の“悪行”さえもリセットされそうになっている。物事を深く考えようとしない「右に倣え」の「勤勉」で「従順」な我が国民たちよ、早く冷静さを取り戻せよ。

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 それにしても、「令和」にしても「昭和」にしても、つまるところ「和」である。マニアのことをいつしか「オタク」と揶揄する習慣が出来てしまったが、この「和」って語は、本来「仲良くなる」「調子を合わせる」「ととのえる」という意味で、広義には「気の合う集団」という解釈も出来るだろう。そうなると、我々が究極の目標と捉える「平和」だって、「平らかに治まること」としか辞書でも定義されていないわけで、極論、近未来SFではないが、全世界的に強権な為政者によって支配が成されたら、それもまた“平和”なわけである。
 
 そう考えると、単に戦争放棄を訴えた日本国憲法第九条は、「平和」の定義を超えた、これこそ究極の法律といえる。この憲法を遵守するためには、武力行使が成されてはならない。そうなると国家間の紛争はとことんまで「外交」によって解決せざるを得ない。それを実現させるためには、お互いが相手国を「思いやる」しかない。

 「和」では所詮、相手のアイデンティティーを認めた上での“対等”は望めない。だって、双方が“和”せねばならないから。いっそ「平和」よりも相手を慮る「慮」か思いやる「恕」という文字を用いて「平慮」か「平恕」にでもした方がいいかもしれないな……

 それはそうと、『“改元”令の夜』を終え、浮かれるこの国の国民たちを、かつて「反権力」「自由」の精神を「ゴラク」に“アイロニー”として織り込んで、晩年の昭和を駆け抜けてきた、深作欣二鈴木則文佐藤純彌といった往年の「映画の伝道師」たちはどう憂うだろうか………

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