元年・上京・いか八郎……
もうすぐ「平成」が幕を閉じようとしているが……その元年に、手前味噌ながらおそらく今までの自主映画活動で間違いなく(自分にとって)一番大きな映画の賞を貰った。それが当時日本テレビが主催していた「第17回日本映像フェスティバル」における「ドラマ部門 優秀賞」だ。その賞を頂いた作品は、広島に帰省して立ち上げたイチヱンポッポフィルム第2作目の『午下がりのシンデレラ』。その招待状を封書にて受け取ったときの驚き・興奮は今でも覚えている(;^_^A
当時頂いた案内状(;^_^A
さて、そんなわけで元年の12月に上京。表彰式は9日(土)だったんだけれど、折角だからと前日から乗り込んで、表彰後も少しばかり東京に滞在した。その時、広島ではなかなかお目にかかれない映画を鑑賞しようと、「ぴあ」を片手に、到着当日の8日夜には原宿の特設テント(確か銀色のドーム状だったと記憶している)で『どついたるねん』を、また表彰式翌日の10日には、渋谷のミニシアターで公開されていた『二十世紀少年讀本』を観賞した。両作品とも、後に広島でも公開されたが、そんな機会に、そんな形でこれらの作品を観賞できたのは、広島の片田舎で過ごす自分にとっては、とても貴重な体験だった(;^_^A
ところで、『二十世紀少年讀本』を観賞した際、キャスト名に「いか八郎」なる名前をエンドクレジットで見つけてしまった。どう考えても、先に酒呑んで溺れて亡くなった「たこ八郎」の影響下でネーミングされた役者だとすぐに認識したが、さてどのシーンのどの役者かわからぬまま、そして気にかかりながらも、「いか八郎」の容姿も知らないまま、今日まで過ごしてきた。
それが今回、いか八郎氏の逝去の記事に接し、彼がかの『テルマエロマエⅡ』における“簡易露天風呂”の「ヘイヘイホー」の爺さんだたったと知り、驚きを感じている。あの容姿からは、「たこ八郎」の面影を感じるよしもないが、実はたこ八郎生前時には、香港で彼の“ボディダブル”を務めたこともあったそうで、その縁で「いか八郎」を名乗る許可を貰ったんだそうだ。
私の手前味噌で始まった文章が、実は「いか八郎」氏の追悼文であった、という妙ヾ(--;) ちなみに件の表彰式では、審査委員の一人・岡本太郎氏デザインのメダルを貰った上、式後のレセプションでは、生の岡本太郎氏とも会えた。尤も、肘を振り上げて危うく側にいた小柄な人の頭にぶつかりそうになって、慌てて手を引っ込めたその人が岡本太郎氏で、驚いたってのが思い出なんだけど……もう30年以上前の話だ;^_^A
このメダルを頂戴しました(;^_^A 家宝です(^^)
表彰式当時の私です。まだ20代(;^_^A
映画「テルマエ・ロマエ」シリーズに入浴中の老人役で出演していた俳優のいか八朗(いか・はちろう=本名近藤角吾=こんどう・かくご)さんが28日午前10時3分、関東近郊の病院で老衰のため亡くなった。84歳。所属事務所の代表・山田大策氏(38)によると、いかさんは今年4月上旬に肺炎を患い入院。山田氏は今月22日に転院する際に同行したが、会話はもうできなかった。家族はおらず、ひっそりと亡くなったという。
昨年8月ごろに映画祭用の自主映画に出演したのが最後の仕事。当時は「まだまだやれるぞ」と話していたという。
いかさんは、若かりし頃は本名の近藤角吾で作曲家、ミュージシャンとして活動。ステージで歌っているうちに次第に漫談や演技も行うようになったという。85年に亡くなったコメディアンで俳優のたこ八郎さんとの関係については、いかさん本人が山田氏に説明したことがあった。
山田氏によると、いかさんは、以前からたこさんと接点があったと話しており、「たこさんがすごく売れている時期に、日本と香港でダブルブッキングがあり、自分がたこ八郎として香港で撮影に臨んでばれなかった。その後たこさんに『いか八朗』って名乗っていいでしょうか、と頼み込んで名乗らせてもらった」と説明していたという。
山田氏も「今となってはほぼ都市伝説ですね」と苦笑いだった。
通夜は6月2日、午後6時、お別れ会は同3日正午から、ともに東京都練馬区小竹町1-61-1の江古田斎場(唯心堂)で営まれる。喪主は山田氏が務める。