神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

『トラック野郎』の超魅力!

 「文太兄ィ」追悼、ということで、その魅力が一杯詰まった「トラック野郎」シリーズについて、以前別のブログに書いたものを再録したい。
 
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 さて、『トラック野郎』とは、松竹の『男はつらいよ』の向こうを張って、75年よりわずか5年間で10本制作された、まさにオイルショック後の日本列島を駆け抜けたシリーズだ。このシリーズは全て“娯楽映画の巨匠”こと鈴木則文監督の演出によるもので、鈴木監督は、『仁義なき戦い』をはじめとする東映実録やくざ路線で活躍した菅原文太と、彼と旧知の愛川欽也とトリオを組んで、それまでの東映が持っていた激しいが鬱屈した世界観を払拭するような、ストレートで明るく下品な一大馬鹿ギャグ映画を構築してくれた。
 このシリーズのコンセプトである、「もてない主人公の恋の行方」は、勿論対抗馬である『男はつらいよ』と同じネタだが、作品を重ねるに従って好々爺然としていく“寅さん”とは異なり、常に泥臭さと下品さをキープし続ける我らが“桃次郎”の活躍(そして演出)は、一種独特の潔さを感じることが出来る。
 
 主人公の桃次郎は、無知で軽薄で無類の女好き、しかもどうも胃腸が極度に弱いらしい一面(鈴木監督演出の魅せ場の一つであるスカトロギャグのせいでもあるが…)をも持ち合わせているようで、その行動及び発想のベタさ加減は、まさしくマンガそのものだ。大抵の場合、排泄行為(立ち小便・下痢等)がきっかけで、その作品でのマドンナと出会い一目惚れ、相手に気に入られようして、平気でトンチンカンな嘘はつくわ、仲立ちに利用とできるモノは骨までしゃぶるわ、回りに散々気遣い(“とらや”の住人の比どころではない!)迷惑をかけるわ,と悪行(本人はあくまで大真面目)を重ねた挙げ句、結局(第5作の『度胸一番星』を除き)マドンナにフラれ(もしくは告白できない)というパターンを延々繰り返るす、といった桃次郎の姿には、その直前まで『仁義なき戦い』の広能昌三役をニヒルに演じ続けていた“コワい”菅原文太のイメージとのギャップに、観る者は混乱を来してしまったに違いない。
 
 尤も、ただのダメヒーローで終わってしまわないのが、文太兄ィの文太兄ィたる所以で、彼・桃次郎は、マドンナへの愛を諦めた瞬間、素晴らしきスーパーヒーローに変貌し、自らの想いを捨てて、敢えて愛のキューピット役を命を懸けて努め上げ、彼女のお礼の声を聞くこともなく、何処へともなく去っていくのである。
 
 昨今、様々なコラムでこのシリーズのことが取り上げられるが、大概は桃次郎のキャラクターを笑い飛ばすものばかりで、クライマックスに向けての彼の格好良さを話題にしないのは、とても残念だ。彼がひとたび私欲を捨てた時、そして誰か(何か)のために危険な走行を始た時、それまでのライバルは彼のために共に戦い(いつもパトカーの追跡妨害)、全国のトラッカーたちが彼を応援する(中でも、灼熱の連続走行中、タイヤのバーストを心配したトラッカーたちが、彼の走路にある各ドライブインに集結し、彼のトラックのタイヤに放水してやるシーンは、いつ観ても感動の涙を誘う)。バカを演じてもやはり彼は全国のトラッカーたちのヒーローなのである。
 
 このシリーズのヒットの背景に、当時のデコトラブームがあったのは事実だが、桃次郎に単なるエゲつない男だけではなく、不器用だが心優しきヒーローの一面も兼ね備えたキャラクターづけが成されていたことも、人気の要因だったと思われれる。少なくとも、5年にわたって「寅さん」と正月邦画の人気を二分した実績は大きい。