ゴジラ生誕60周年に
さて、毎年文化の日こと11月3日は、極力「ゴジラ映画」を観ようと心がけている。それで今年選んだのは『ゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃(以下GMK)』。かの『少女は異世界で戦った』の金子修介監督による、唯一のゴジラ映画だ。
昨今このブログで“アンチリアリズム”ばかり書いているが、そんな中で本作は『ゴジラvsビオランテ』と並ぶ“リアリズム系ゴジラ映画”。当ブログの最近の主張と異なるようなチョイスだが、実は本作、かの“ゴジラ総選挙”第一位の『ゴジラvsビオランテ』と同様、大好きだったりする。
そんな『GMK』だが、リアリズムでいて“大きな嘘”の方は大胆についている(ゴジラを生物ではなく“物の怪”のごとき存在に設定しているといるところなど)点など、単なる“リアリズム”を超えた潔さがあり、インディーズではとても真似できないと思いつつも、実に共感を呼ぶ作りに仕上がっている。
前半の“理詰め設定”にすっかり痺れて「これは決してお子様ランチではないゾ」と誇らしく思ったが、反面、クライマックスのGMKの戦いが今ひとつはっきりせず、そこら辺りが意外とカタルシスを与えてくれない展開になってしまったのではないか、って思う。さすがにキングギドラのあのあっけなさはないでしょう……
そんな中で、プロトタイプの『ゴジラ』を“メモリアル”の意味で観賞しているが、今ちょうど芹沢博士の手によって、オキシジュンデストロイヤーが操作されるクライマックスを流している。今回2作品を図らずも見比べてみて、オープニングの栄光丸襲撃シーンと『GMK』における清水港放射能火炎シーンが同じように描かれていたことに気づいた。また『ゴジラ』で襲撃される2隻目の名称が、原爆の惨禍に苛まれた広島の隣町(同一県内)の旧名と同じ「備後」丸だったり、と意外な発見があった。