神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

カープ V1 古葉竹識監督

 去る11月16日、広島東洋カープファンにとって二つの大きな報道があった。うち、鈴木誠也のポスティングによるメジャーリーグ挑戦は半ば"既成事実”のようになっていたのでそんなに驚くこともない。むしろ、今を遡ること6年前の2015年も、大黒柱のマエケンのポスティング移籍でどうなるか、なんて考えていたのに、その翌年はなんと25年ぶりのリーグ優勝を果たしてしまった(しかも件の2015年は、甲子園での疑惑のジャッジで一勝分を逃し、それが尾を引いてすんでの所でCSを逃したり、その年の優勝がヤクルトだったりと、今年とやけに共通点が多い)。ある種"吉兆”といえなくもない。

 だが“もう一方の報道”は、我々の世代にとっては衝撃的な出来事だった。「セントラルのお荷物」と揶揄されてきた広島カープを、球団創設以来初のリーグ優勝(V1)に導いた、古葉竹識(元)監督の訃報である。1975年のあの熱狂の渦を経験しているだけに、本当に一時代が終わった、という思いが去来する。

 

 

 

 貴重な「c(カープ)」「T(東洋)」「h(広島)」を合わせた野球帽をかぶった、現役時代の古葉氏。


 恥ずかしいくらいミーハーなカープファンで、1975年の夏までろくにルールすら知らないくらい野球に興味が無かった私にとって、古葉氏はあくまで監督としてのイメージしかない。しかも監督でありながら三塁コーチャーに立ち、「青年監督」という呼ばれ方が似合う人だった。野球に興味が無くてもカープが超弱小球団である事くらいはわかっていたので、そのカープが優勝するかもしれない、と思うと、とにかく応援するしかなかった。そしてカープに野球に深くのめり込んでいった。あの10月15日の優勝シーンは今も忘れられない。奇しくも、かつて首位打者を争った長嶋茂雄率いる讀賣が歴史的な低迷で最下位に喘いでいた年に、同じく新人監督(しかも“中途採用”)だった古葉氏が優勝を勝ち取るなんて、まさにドラマのような話だ。

 

古葉氏といえば、どうしても思い浮かぶのは、初優勝胴上げ時のこの写真。

 

 こちらは1976年オープン戦のチケット。こんなにカープファンに広島人に愛されていた。

 

 やがて古葉監督率いる広島東洋カープは黄金期を迎える。古葉氏が監督を務めた頃は、自由獲得からドラフト制に入団制度が変更されてから久しく、且つドラフトの自由枠やFA制度が導入される“前夜”までの期間。そう言うと何やら貧乏田舎球団カープに有利な時期ととられてしまいがちだが、そんなことは決してない、ただ「不利じゃなかった」だけだ。12球団がある程度平等に戦力を整える事が出来た時期でしかない。だからこそ、平等に揃えた戦力を上手に駆使して、黄金期を作った古葉監督の手腕は賞賛に値する。

 古葉監督以降、広島東洋カープを優勝に導いたのは阿南準郎山本浩二緒方孝市の3人のみ、しかも緒方監督以外は各1回の優勝にとどまり、日本一に至っては古葉時代の1979年、1980年、1984年の3回しかない。ルーツ前監督の“遺産”を引き継いだとはいえ、前年最下位で、しかもその中で唯一の光明だった最多勝利投手の金城基泰を交通事故による重傷で欠くという絶望的な戦力の中、優勝までこぎ着け、以後リーグ優勝4回、日本一3回の栄光に輝いた古葉監督は、途中横浜大洋の監督に就任したり、一時期与党に担がれて市長選に出馬したりしたこともあったが、やはりカープの……否広島の英雄であり大恩人である。

 以前、カープ初優勝を検証するドキュメントで、初優勝時の100米道路パレード時に彼らに向かって遺影を掲げるファンのことを回想しながら、思わす涙し言葉に詰まらせた姿が印象的だった。先日の追悼番組で、元”V1戦士”の外木場義朗氏も、「普段は温和な性格でもユニフォームを着ると人が変わったように勝利にこだわる厳しさを見せた」と語っていた。ついでに極めてパーソナルなことを書くならば、氏の次男坊がウチの高校の一年後輩で、その年に高校のPTA副会長に就任したことがPTA広報に掲載されたり、当時カープがウチの高校の野球部のグラウンド(旧市民球場と同じサイズのフィールドだった)を時折練習で使用していたため、1980年の日本シリーズ前に、そのグラウンドから全校生徒に向かって挨拶(謝辞)をしてくれて、その時、吹奏楽部の他の部員とともにコンバットマーチを吹いたこともあった。

 

 氏の栄光とその人柄に思いを馳せ、今はただただ冥福を祈るのみだ。それにしても件のV1から既に46年もの年月が経過していたんだなぁ………合掌