素晴らしき哉、わが学生映画時代(^^)
今からウン十年前の学生時代、映画研究部に所属したことはなかったが、4年次に他科(美学科)の「映画論」という講義を、科を超えて聴講したことがあった。
この講義は、映画“論”というよりは“実践”に重きを置いた講座で、授業として、当時すでにVTRに押され気味だった8ミリフィルムを用いた映画製作を実際に行っていた。当時、他科から聴講していたのは、私を誘ってくれた同じ科の親友と私の2人だけ。後は主に3~4回生の、当然ながら美学科学生ばかりだった。中には、「この講座ならば出とけば単位がもらえる」という“低い志”で受講する学生も少なからずいたようだが、もとよりここの単位を修得しても何ら卒業単位にも成績にも関係ない私たちは、逆に好き勝手にやらせてもらった感がある。勿論、純粋に映画を学ぼう、楽しもう、と考える美学科生や、それまでの学生生活で旧知の間柄だった同学年や後輩もいたので、結構楽しくやっていたことを覚えている。
当初は、誘われての聴講故、親友の後からついていくつもりだったが、その直近の春休みに試写会で大林宣彦監督の『さびしんぼう』を観てしまったため、自分の中の“自主映画魂”に火がついてしまって、年度当初から、早くも「いつかは自分が監督に」なんて野心を抱くようになってしまった。
最初に簡単な映画史と8ミリ機材の使い方に関する説明が教授によって行なわれると、後は(確か)2班に分かれて、実際の映画作りがスタートした。当然私は親友と同じ班になったが、こっちの方は、旧知のメンバーをはじめ、志の高い者が多く、かつ演劇部の部長もいて、なかなかの充実ぶりだった。そこでまず最初に手を挙げた親友の企画により『水時計』という映画の制作が始まった。大学の庇護というか後ろ盾があったとはいえ、ロケ場所として大学構内のみならず、スナック喫茶、モデルハウス、といった場所まで大胆に撮影交渉に向かったものだった。また演劇部の化粧道具を借りての“老けメイク”なども行った。しかも、当時はほとんど下宿生だったんで、昼夜を問わずの撮影を行う、今考えれば夢のような現場だった。
上下とも『水時計』撮影現場スチール
ロケを行ったスナックのマッチ(記念)
『水時計』が夏休み明けには完成し、次にようやく私にも御鉢が回ってきて、前から温めていた、藤子不二雄氏の漫画を元ネタにした『新人代謝』という映画を撮ることになった。台本はもちろん手書きで、大学の印刷室で刷ってもらって手作業で製本したものをメンバーに配り企画がスタート。主要キャストは班内で割り振ったものの、主演女優が決まらない。もともとそんな“つて”があるわけではない私は路頭に迷ったが、メンバーが手分けして探してくれたおかげで、これも他科の同級生がこの役を請け負ってくれることになった。初めてその子と対面し、主演を快諾してくれた時には、彼女が“女神”のように見えたものだった(;^_^A
件の初監督作品『新人代謝』のヒロイン(;^_^A (下記の、撮影が深夜に及んだクライマックスのシーンよりフィルムコマ抜撮)
夜間の撮影が多かったため、照明用のライトを路上に持ち出して、ドラムコードで電源確保して使ったり、明るい看板の下で撮るなどの創意工夫もした。ロケ場所も、さすがに前回のように一般の施設を借りることは叶わなかったが、映画と関係のない先輩や同級生の下宿などを借りまくった。中でも、一番お世話になったと未だに感謝している先輩の部屋をお借りした時など、作品のイメージに合わせるために、スタッフ総出で部屋を“改造”したこともあった(もちろん先輩の承諾の上で、かつ撮影後ただちに“復元”した(;^_^A)。男性主人公の部屋は私の下宿を利用したが、ヒロインの部屋として主人公の子の下宿も使わせてもらった。思えば大学4年間を通して、女子の下宿に上がったのは、彼女が唯一だったよ(;^_^A
別府湾を望む海岸線での、2人の主人公の印象的な夢想シーン、主人公の謎の深夜徘徊、ヒロインの兄の書斎(研究室)、暗闇の中での男女入れ替わり(?!)のシーン、そして不思議な事件の顛末、といった物語を彩る一連の場面を、冬を迎えた別府の街で、ひたすら撮り続けた。上記のように昼も夜もない生活だったから、撮影にはいつもみんなが来てくれていた。中でもクライマックスにおける、件の先輩の“改造された”部屋で行ったロケは、夜の8時前から始まって、アップしたのが深夜の12時直前。真夜中にもかかわらず、みな異様な高揚感に包まれていたのを覚えている。
今は亡き、クライマックスを撮影した下宿(軽四が止まっている奥の建物1階の一つ奥の部屋、ちなみにその右の建物2階奥が、男性主人公の下宿シーンを撮影した私の部屋。「ストリートビュー」より)
『新人代謝』スタッフ・キャストと
学生映画の醍醐味って、実は上記のような、こんなところにあるのだと思う。時間もふんだんにあって仲間もいて、ないのはお金だけ。公開の機会はままならないが、取り合えず撮り上げて、完成させ、みんなで試写して喜び合う。「身内だけで盛り上がっても」との指摘もあろうが、それが許されるのもまた、学生映画の醍醐味。私たちの場合、一番の問題点である「お金」の部分が、大学の講座故そもそも学科の予算で賄われていたのだから、今思っても、映画研究部と比べても、本当に夢のような環境だった。
いつも頭の片隅に鮮明に残っていて、時折その断片が脳裏に浮かぶことはある、そんな学生映画の記憶なんだけれど、この度“月に一度は劇場映画観賞”11月分として、『ビューティフルドリーマー』(本広克行監督)を観たことで、その記憶がまるで昨日のことのように鮮明に甦ってきた。作品そのものの感想は改めて述懐しようと思うが、あの映画の中には、当時の我々自主映画人の姿が、極めて理想的な形で描かれていた。特に舞台が美大の映研ってのも、美学科の研究室で映画を撮っていた自分たちと何となく被るし(;^_^A
自分にとっては、もう数十年前の忘却の彼方の出来事だけど、その僅か1年間だけの“映画論" が、今やインディーズながら監督作品23本を数えるようになった我が映画製作(監督)人生の礎となり、また人格形成の一助となったことは、今思い出しても、いい意味で驚くべきことだと思うし、当時の仲間・恩師には心の底から感謝している。
ちなみに、『新人代謝』は撮影後、卒論と同時進行でポスプロ作業を続け、何とか完成。よりによって卒論提出〆切日の午後に共同上映会で公開の運びとなった。その後、卒業までの短期間に、第二作『陽光で描いた風景画』を、これも班のメンバーと、教授の推薦で呼んでもらった、またもや他科の同級生の子をキャストに僅か3週間で制作し、卒業前ぎりぎりに、関係者だけの試写会を行った。またそれと前後して、卒業して聴講生となった先輩の作品にスタッフ・キャストで参加するなど、卒業の年はまさに“映画三昧”の日々となってしまった。本当に幸せな時だったと、今もしみじみ思うよ。
初上映会のパンフレット(表紙)
『陽光で描いた風景画』のヒロイン2人(;^_^A
『陽光で描いた風景画』試写会の折に
先輩の現場で