神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

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『れいこいるか』観賞記② 〜「神」の「戸」の天使たちが織り成す23年の歳月〜

 ここからは『れいこいるか』観賞後のレビューを……(ちょくちょくネタバレありますので読まれる際にはご注意を)

 

 

 「先の阪神淡路大震災で娘を失い、のちに離婚した夫婦が、やがて時間をかけて娘の死を受け入れ、震災から23年後の2018年に再会し、娘との思い出の地に向かうというストーリーのフィクション・ドラマ」……サイト上で紹介されていた、こんなあらすじを元に観賞したわけなんだけれども、このあらすじは当たらずとも遠からず、といった面持ちで、実際には思った以上にエキセントリックな物語が展開する、いい意味で裏切られる作品だった。予告編に出てくるシーンも、「ああ、こういう人間関係でこういうタイミングで使われてるんだ」って感心することしきりだった。

 

 物語は、阪神淡路大震災前日の砂浜からスタートする。直前に水族館へ行き、イルカのぬいぐるみを買ってもらったれいことその両親の太助と伊智子が帰り際に砂浜で訳もなく佇む。ここでタイトル『れいこいるか』の“いるか”が、所在を表す「居るか」と「イルカ「(海豚)」との″掛詞”であることを観客は思い知らされる。そして、母親の伊智子が、不意にポケベル(これも時代ですね(;^_^A)で呼び出されてその場を去り、残された父子が帰宅、そして伊智子を待っているうちにれいこは就寝、その後も玄関で明け方まで伊智子を太助が待っていたところに、あの阪神淡路大震災直下型地震が襲い、幸い玄関前で待っていた太助は難を逃れたものの、自宅の部屋で寝ていたれいこは、家の下敷きになって(のちの太助の言によると、崩れた床柱の角材がそのまま頭にめり込んで)絶命していまう。そんな時、母の伊智子はどうしていたかというと、他所の男とラブホテルで不倫の真っ最中だっという不条理な展開。このラブホのシーンが物語の世界観を考えても殊の外濃密で、ここらあたりが、制作協力に「国映」が名を連ねている所以か、なんて勘ぐったりしたが、上映後のトークショーでいまおか監督が、今回の企画は当初ピンク映画の枠組みで企画していた、という話を聞いて変に納得(;^_^A  そういえば、横川シネマ!!がまだピンク映画専門館だった頃の20世紀末、ここで本作と同様に後半震災後の神戸・長田区を舞台にした、岸加奈子主演の『熟女ソープ・突き抜け発射』を観たことを思い出したよ(;^_^A。そう思うと、作品のタッチというか雰囲気がどことなく似ていたような気がした。

 

 その後、諸々の現実が二人に圧し掛かり、結局二人は離婚、ということになるんだけれど、物語はいきなり離婚した伊智子が新しい男と再婚したところからリスタートする。この部分のザックリぶりは、たまたま予告編やレビューを拝見していたから私は″離婚”したってわかってたけど、何の情報もなく観た人はいささか戸惑ったかもしれない。しかし、もしそこら辺りを丁寧に描いてしまうと、娘を失った喪失感から苦悩と絶望感と諍いを続け、徐々に崩壊していく夫婦関係を延々観させられることになり、それはそれで滅入ってしまったかなって思ってしまう。それ故このあっけらかんとした展開は、かえって作品世界にいい意味でテンポを与えてくれたような気がする。娘の死の瞬間、母親が不貞行為に至っていたという、これ以上ない救いのない事態も、そこに震災のショックで膣けいれんを起こしてしまうという、笑うに笑えないブラックユーモアを挿入することで、ある程度は緩和されたのではなかろうか。

 

 それから、ラストの25年目の“デート”を迎えるまで、太助と伊智子はどことなくつかず離れずの関係を続けるが、その間、結婚、同棲を4度も繰り返すなど、一見自由奔放に見える伊智子に対し、太助の方はどうも冴えない人生を送っているように見える。れいこのことも伊智子のことも、引きずっているのは太助ばかりで、どこかストイックにさえ感じられた。何とも損な役回りで、観ていて「おい、もっとしっかりしろよ、自分に素直になれよ」ってスクリーンの彼に叫びたくなる衝動に何度も駆られた。やっぱ、こういう時は心情的に父親の方に肩入れしてしまうんだろうな(;^_^A

 

 それにしても、彼らを取り巻く神戸の人が、とにかく明るい。あのような悲惨な震災を体験しているのに……というかそれ故、敢えて明るく振舞っているように見えた。そして震災後の苦難な生活の中で、自然と“共生”という意識が芽生えている……そんな人々の営みを声高にならずとも丁寧に描いていたと思う。離婚後も伊智子の実家の酒屋に顔を出してはただ酒をせびる太助の父親に、いやな顔をして悪態をつきながらも毎回コップ一杯の酒を差し出す伊智子やその母親の姿、また全編“天使”のように登場する、ウルトラセブンにドはまりした意志薄弱のような青年に対する街の人々の心遣いなどに、それが色濃く出ていたと思う。それはそうと、主人公の太助をはじめ、登場人物がみな日本酒しか飲まないのは、やはり酒処・灘がある神戸ならではの演出か。

 

 その後、伊智子の方は失明の危機に晒されたり、かなりの額の金を工面して結婚の約束まで取りつけた”青空シナリオ講座”の先生に逃げられたり、太助は太助で、卓球を教わっていた少年の母親を暴行する暴力夫を止めようとして、不可抗力で暴力夫を死なせてしまうなど、それぞれ過酷な現実に直面しながら、それでも時間は刻々と過ぎていく。そこに、震災時の伊智子の不倫相手で、今はゲイとなってスナックを経営している男が絡み、物語は淡々と進んでいく。太助に倒された暴力夫が石垣に後頭部をぶつけて絶命するシーンでは、これでもかという位のセミの鳴き声が劇場内に響き渡り、ジリジリした夏の暑さと共に、ことの重大さを観る者にいやがうえにも思い知らせる演出だった。そんな太助が警察に自首する前に立ち寄ったのが不倫相手のスナックだったが、その時置き忘れたれいこの形見のイルカのぬいぐるみを、彼の出所まで大切に取っておいた不倫男の“贖罪”というか心遣いも、なかなか胸が熱くなるシーンだった。

 

 やがて前出のように太助は出所し、もう一度伊智子に遭おうとするが残念ながらすれ違いを続け、彼女の母親に一本の電話を入れ、神戸を離れていく。そしてまた数年の時が流れ、再び神戸に舞い戻ってきた太助は、偶然軽四を運転中の伊智子と再会し、そこから意気投合して彼女の店で酒を飲み、地下にある、二人が初めて出会った“馴れ初め”の地である卓球場をかすめながら、彼の泊まる安ホテルへ。そこで彼女はれいこの形見のぬいぐるみを見つけ、それをおもちゃにしているうちに、感情があふれ出す。ここが一番のクライマックスだったもしれない。それまで、れいこについてほとんど言及も悲嘆するシーンすらなかった伊智子が、亡き娘に対する思いを声にもならない声を発しながら爆発させる。それはあたかも新藤兼人監督『裸の島』におけるこれもクライマックスの乙羽信子の嗚咽を連想させるシーンだった。あの映画でも息子を失った乙羽が、それでも島の乾いた畑に水を撒く過程で桶をわざとひっくり返し、セリフのない映画の中で唯一嗚咽という“声”を発する、迫真のシーンだった。なまじ娘の死から離婚までの過程が描かれていなかったため、恋に生きる伊智子にとってれいこの存在は薄いものだったのかって思わせるけど、考えてみれば、実際自分が生んだ娘の死は、父親のそれ以上に深い悲しみのはずである。それまで幾度か太助が彼女に「自分を責めるな」云々と声をかけるシーンがあったが、実はこのクライマックスの伏線だったのかもしれない。

 

 それから成り行きで2人は情交に及ぼうとするが、太助が原因でそれも果たせず。そして朝を迎え、二人はれいこの思い出が詰まった水族館へ行く。そこで彼は今やすっかり青年に成長した卓球少年と再会する。その時彼が連れていた彼女の名が図らずも“れいこ”。そこで伊智子は挨拶をしてその場を後にする“卓球青年”とその彼女に向かって「れいこ!」と声をかける。このカットが実に泣けた!( ノД`)

 

いまおか監督もお気に入りのカットだそうで。私も全くの同感! 実に魅力的だなぁ(;^_^A

 

 その後2人は、れいこの思い出にすがることなく、再び別れていく。そこにはもったいぶった余韻もないし、実にさばさばとしている。もっともそれは25年間という月日を要してようやく2人の人生が再生されたことを意味するのであろう。思えば、れいこの死、というよりも、2人の再生に重きを置いた物語だった。だから亡き娘に思いを寄せるという意味でのファンタジー色は薄く、紆余曲折した人生、そして日々の生活を精一杯生き抜く2人と、震災に晒られた神戸の人々を淡々と描く、そんな映画だったといえる。映画の中で息づいている、不器用だけど憎めない人々……阪神淡路大震災直後、CNNのアナウンサーが「神戸」という地名を説明する際、「神(God)」の「戸(door)」と説明していたが、そう思うと、上記の青年をはじめ、登場人物の全てが、震災後の神戸の地に舞い降りた“翼の折れた天使”のように思えてならない。

 

 観終わって予告編のことを思い出して、この予告編は、それでストーリーを紹介するつもりはなく、ただ印象的なシーンをピックアップしてランダムに並べたものだったと実感した。でもそれって予告編の“王道”な編集だったといえる。だから映画を観て初めて予告編のシーンの意味が分かったし、それを探すのも結構楽しかった。

 

 時折予測外のエキセントリックなシーンに出会うけれど、物語はいたって淡々と、そして実に登場人物への慈愛に満ちた視点で描かれていた。目に見えない「れいこ」という存在が、映画の中の世界観を優しく包んで展開するような雰囲気。数少ないれいこの愛くるしい声が、観賞後もどこか脳裏にこだましている。