神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

人を“刹那”に導くネット社会

 連日ふがいない試合を続ける広島東洋カープ。私も、昭和50年の初優勝から“本格的”にカープファンとなった(地元広島人は大抵が生まれた時から“暫定”カープファンの宿命を背負っている(;^_^A、“超ニワカ”なファンながら、流石にこの間までの未曽有の3連覇(セリーグの)辺りからのファンと比べたら、“負の抵抗力”はあるものの、ここ最近の「勝つ気がしない」展開は残念に思っている。しかし今回はそんな話ではない。

  

 今、ツイッターやネットへの書き込みという新たな表現手段を人類は手に入れた訳だが、例えばヤフーニュースの試合結果を知らせる記事に対する数多の書き込みを見るにつけ、一時的には読んで留飲を下げるものの、ちょっと頭を冷やして冷静に読み直してみると、何とも切なく空しい思いに駆られてくる。もっともそれは、試合結果に対する一喜一憂という次元のものではなく、それこそ野球を通り越して、ネット社会に暮らす我々のありように関して、何ともやるせなく思ってしまうからだ。

 
 最近では、佐々岡監督の采配に対する批判が凄まじい。歴代このチームではまずやり玉に挙がるのは選手ではなく監督だ。とはいうものの、そんな批判の中に、昨年まで監督を務めた緒方の待望論が出てきているのには驚いた。昨年まで“汚方”とまで称して散々采配批判が後を絶たなかったのに、よくもまあそんなことを書けるな、って思ってしまう。しかも彼の政権下でも、緒方批判の先に、その前には“能無犬(ノムケン)とまで罵った前監督の野村を、再登板させよとの記事が躍っていた。そんな記事を読むにつけ。「今までなんて言ってたんだ!」って突っ込んでみたい気分になる。また、個々の選手への批判も、試合ごとに目まぐるしく変わる。しかもその日のプレイを叱咤激励するよりも、ワンプレーで選手の全人格を否定するようなコメントを書いている。もう一喜一憂の次元を超えた勢いだ。しかもその批判に一貫性はない。

 

 そこで感じるのは、そもそもネットの書き込みって、本来は一瞬脳の片隅をかすめても、直後に消えてしまうような、そして口に出すのも憚れるような感情を、ストレートに吐き出す場になってしまっていることだ、。そりゃ誰でも、ひいきチームの選手がチャンスで三振したりタイムリーエラーをしたら、その瞬間「クソ!」とか「死ね!」なんてひどいことを考えてしまう。でもそれは一瞬の感情であって、すぐに自らの“人格”がそんな感情を戒めているものだ。しかし、ネットに書いてしまうと、永遠に残ってしまうし、見て愉快な気持ちにはなれない。さらに言うならば、ネットの書き込みという手段が出来てから、人間はどんどん刹那的な思考・言動をするようになってしまったのではなかろうか。物事を線では見ずに点で見てしまう。引いてま今しか見えていない。もともと日本人自体「のど元過ぎれば熱さ忘れる」傾向にあるので致し方ない部分もあろうが、そのようなは発想が政治や経済の分野でも蔓延ると、それは由々しき問題だ。

 
 たかだかネットの書き込みと思うなかれ。その先にはもっと根深い問題が潜んでいる。