そんな「時代劇」ドラマの中でもメジャーな人気を誇るのが『水戸黄門』『暴れん坊将軍』『遠山の金さん捕物帳』の3作品だろう。勿論『必殺』シリーズや『銭形平次』『伝七捕物帳』といった作品もあるが、やはり前述の3作品の一般的な人気には及ばないと思う。しかし厄介なことに、この3作品、いずれも時の「権力者」を主人公にした勧善懲悪なのだ。

 

 

 『遠山の金さん』は北町奉行・遠山左衛門尉(金四郎景元)、『水戸黄門』は先の副将軍・水戸光圀公、そして『暴れん坊将軍』に至っては、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗が主人公である。しかも皆世を忍ぶ仮の姿で、各回の悪党の悪行三昧を見届けた上、最後の最後でその身分を名乗り、その権威によって悪党を屈服させる、ってのがこれらのドラマの定番ストーリーだ(『暴れん坊将軍』に限っては、「もやはこれまで」と悪党はあろうことが将軍に刃を向け、結局退治されてしまう)。この絶対的な権威で悪党にグウの音も出させない、ってところに多くの日本人はカタルシスを覚えて拍手喝采するんだろうけど、これは実は由々しき問題である。それは、日本人に自分の思いを自分より強い立場の者に仮託する傾向があるという点だ。権力者が自分たちに成り代わって絶対的な権力で悪事を裁いてくれる、ひいては自分たちを導いてくれる、そんな願望というか妄想を未だ持ち続けているのが、この手のドラマを好む心理なのではなかろうか。

 

 しかしそれは、あくまで完全無欠の「性善説」によってのみ成立するのである。確かに金さんもご老公も徳田新之助も、絶対的な正義者・庶民の味方として登場・活躍するが、残念ながら実際長く権力の座に就くと、次第に庶民の思いと乖離し、それこそ彼らに裁かれるべき「悪代官」「越後屋」と化してしまうのが実状だ。だから、権力者に“丸投げ”しても、「悪代官」にひどい目にあわされる悲しい被害者になるのがオチである。だから。『遠山の金さん』や『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』の世界観を無自覚で受け入れている国民性には、ため息が出てしまうのである。まあ、これらの番組を純粋に楽しむというのとは別の次元で……

 

 権力者は何もしてくれない。少なくとも国民(というか日本で税金を払っている人全て)が、意思を持った投票行動なりデモ運動なり今はやりのツイッターなりで自己主張していかなければ、そして国民の言葉に耳を傾けなければマズい、って為政者に思わさなければ、何もしてくれない。これはどの政党、どの政治家が権力者になっても同じだ。悲しいかな、黙っていても国民のために何かをしてくれる、なんて妄想は捨てたほうがいい。これは、現自公政権下でも、民主党時代も、遡って連立与党(新進党)や単独自民時代でも同じだったから猶更強く思う。またこれは、政治の世界のみならず、何事においても必要だ。ただし、その際は相互のコミュニケーションを意識しての主張なり行動でなければならない。

 

 上記の3作品は、それもクライマックスの口上はとても好きで、つい最後まで観てしまうクチなんだけど(;^_^A、ドラマとしては客観的に楽しむとして、その底流にある(そして制作者が意図したわけでもない、それ故根深い、日本人の深層心理にくすぶっている)このような「権力者に対する無自覚な依存(服従)」が気が付かない間に刷り込まれないよう、自覚を持つことも必要なのだと思う