最凶の捕食ヒロイン
ここん所、“ヒロインの捕食”ネタばかり書いているが、今回は、おそらくこの種のネタでは最凶の、東映(しかも京都制作)映画『恐竜・怪鳥の伝説』(1977年公開)に於ける“捕食されるヒロイン”を紹介したい。
この『恐竜・怪鳥の伝説』は“ゴジラ”“ガメラ”“ギララ”とといった、連綿と続く邦画のお家芸「怪獣映画」の流れで制作された、というよりも、むしろスピルバーグ『ジョーズ』の大ヒットに便乗して「鮫よりも恐竜が人間を襲った方が凄いだろう」というコンセプトの下、“動物パニック映画”のノリで制作されている。その点では、同時期に『悪魔のいけにえ』に触発されて、とことん残虐描写に拘った『徳川女刑罰絵巻牛裂きの刑』と同列に配されるべき“東映迷走映画”の逸品だろう。
この“少年好みの「怪獣映画」を装った残虐パニック映画”は、これまた同時上映の“人気漫画の実写化を装ったムチャバカ映画”『ドカベン』と共に、当時“東映まんがまつり”のノリで劇場に足を運んだ青少年に、消すことの出来ないトラウマを与えてしまったことは想像に難くない(当時、私もギリギリ“青少年”だったが、幸い劇場公開時には観ていない)。
さて、この映画、怪獣映画のスペクタクルに「富士山噴火」の“自然大災害”要素、「首のない馬の死骸」に代表される猟奇ホラーの雰囲気、人間が恐竜に襲われる残虐性、そしてピチピチウェットスーツの女性水中カメラマンや、林間学校の途中に全裸でシャワーを浴びブラジャー姿でうろうろする女教師などの“お色気”と、思いつく映画のエンターティメントを強引にぶち込んだ“無理矢理娯楽超大作”なのだが、如何せんどれも支離滅裂で、娯楽映画の醍醐味よりは、不条理映画の違和感ばかりが募る、不思議な映画だった。
そんなわけで、冒頭に書いた“ヒロイン捕食”シーンだが、劇中、富士の湖で水中撮影に興じるカメラマン・小佐野亜希子(沢野火子)をゴムボートで待つ助手・園田淳子(津島智子)が、突如現れたハリボテ感満載のプレシオザウルスに襲われるシーンで登場する。
ここでは、恐竜に足を噛みつかれて宙づりになった淳子が、一旦海に投げ捨てられるものの、足を噛み砕かれた痛手から逃げることも出来ず、湖面を血に染めながら、結局恐竜の餌食となってしまう。その直前、恐竜は彼女を前にして、喉を鳴らし、おそらく生唾(しかも透明ではなく嫌らしいばかりの白)を口中に溢れさせる。自分を旨い餌だと思って生唾を垂らす巨大生物と対峙するなんて、生き物にとって最悪のシチュエーションだ(恐竜の造型があまりにチープなため、却って恐怖心・違和感が増す!)。
血を流して湖面を赤く染め、餌食となる淳子と生唾ゴックンのプレシオザウルスの描写は、あたかも「生理」「セックス」を連想させる実に艶めかしくいかがわしくむごたらしいシーンで、それだけでこの2本立てを“夏休み企画”として上映した東映の“確信犯的”な罪深さを呪わしく思うばかりなのだが、アダルティーな感覚で今観るとなかなかグッと来てしまうのが不思議だ。
もっとも、“紅の血糊”が際だつ東映だけあって、何とも残虐。いずれにしても“液体人間に同化された”園田あゆみや“イリスに精気を吸い取られてしまった”仲間由紀恵のような“観念的捕食”と違って、この津島智子のシーンは文字通り“生きながら噛み砕かれる捕食”として、痛々しい感覚と共に、“ヒロイン捕食”の世界に燦然と輝く金字塔となったのは確かだ。
ところでプレシオ君、若い女性は美味しかったかな?