何故に「ヒロイン」は“アクション”するのか?
もしかしたらこのブログの究極の命題ともいえるのでは、と思うのが『何故に“ヒロインアクション”なのか』というテーマである。何故「女が戦わなければならないのか」、否、「女に戦わせなければならないのか」、と考えたとき、果たしてもっともな解答は得られるのだろうか……?
“ヒロインアクション”の醍醐味は、明らかに体力(特に瞬発力)、戦闘能力に劣るはずの女性(ヒロイン)が、屈強な男共(時には怪人・怪獣)を鮮やかに倒すカタルシス、それに限ると思う。だから、当団体で制作する“広島発ヒロインアクションムービー”の主人公たちは、モロボシアイも神宮寺真琴も葛城アキもみな、圧倒的な強さで悪に立ち向かう。巷に現存する多くのアクションヒロインたちも、多少のピンチ(危機)に遭うが、一部を除いては勧善懲悪のハッピーエンドに向かって突き進む。もっとも近年は、その“ピンチ”に特化して、ヒロインを陥れることを主目的として“ヒロピン”なるジャンルも誕生しているけど……
だが、そんなカタルシス、男同志の闘いで十分描けるではないか、むしろ格闘技よろしく、男と男のぶつかり合いの方がアクション的にも迫力満点だ。もちろん、そんなジャンルはずっと前から今に至るまで連綿と続いてい
それでも、千葉ちゃんより志穂美悦ちゃん、ブルースリーよりアンジェラマオの方がグッと来る、という輩たちも多いのは確かだ(特に私)。「男が女に倒される」シチュエーションなんて、男としては悔しくて仕方ないはずなのに……(精神的にはいつもやりこめられているし……)。我々は“強いヒロイン”に何を求めているのか。
おそらく、“キツい”ヒロインには心ときめかないだろう。我々がヒロインに求めるのはひたむきさ。だから強い相手に立ち向かう姿に素晴らしさを感じるのであって、それが“弱い者イジメ”では全然興味が湧かない。
そうなると、体力的に弱いはずの女性“ヒロイン”が、それでも屈強の男たちに立ち向かう、という構図で、その“ひたむきさ”を感じることが出来るから、世の男たちは戦うヒロインに心を奪われるのだろう。
特に精神的には随分たくましくなった女性たちに、“ひたむきさ”なんて男共の妄想は、最早感じる機会もほとんどなくなってしまったろうし……
今回、当ブログを初めて500回目の記念すべき日記となったので、当ブログの深いテーマを掘り下げたつもりだったが、どうも上手くまとめきれなかった。究極のテーマ故、また機会を見て、自分の思いを書き連ねてみたいと思う。