神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

生誕102年に想う

 過日、広島県呉市を舞台にした映画『孤狼の血』を観賞したことについて触れたが、先日、同じく呉市が舞台でもある『男たちの大和』も久しぶりにCSで観た。ここでは、出撃前の訓練シーンで、新参兵が主砲の46センチ砲弾をうっかり落とし、上官の制裁を受ける場面があるんだけれど、このシーンを観る度に感慨深く思うのは、そこでその砲弾を倉庫から運ぶエレベーターが登場するからだ。「ああ、このことだったのか」とか「ああ、このシーン観せてやりたかたったなぁ」との感慨だ。

 

 父親が亡くなって、今年で38年になる。生まれは大正9年。かの関東大震災の前だった。昭和18年9月、当時呉にあった海軍の軍艦を設計建造する「呉海軍工廠」に臨時工員として採用、翌13年4月に通常工員、そして15年10月に普通工員に昇格するものの、同年12月に依願解雇となっている。何故かというと、その月に西部2舞台39師団231聯隊3大隊9連隊(藤6864部隊)として陸軍に入隊するからである。

 

 海軍工廠の思い出として、生前何度も聞かされたのが、「戦艦大和の主砲に砲弾を運ぶエレベーターの設計に関わった」という話と、「重巡洋艦最上の試運転に乗艦した」という話の2つである。今となってはその真偽のほどは確認しようもないけれど、件の『男たちの大和』の主砲エレベーターのシーンは出来れば魅せてやりたかったと今更ながら思う。それはうんと前、この映画のロケのために、尾道市に原寸大の大和のセットが組まれた時も同様に感じたものだった。

 

 その後16年3月に中国に上陸。そこでは主に通信兵として活動し(それが縁で復員後電電公社・今のNTTに入社)、その間ふくらはぎに貫通銃創も負ったそうだった(その傷口は何度も見さされた)。そして終戦直後の20年9月にソ連に抑留され、シベリアでの過酷な労働を体験。その時の思い出として、しばらくは死んだ同胞の亡骸を埋葬するために、ツンドラの大地をひたすら掘ったとか、大便をしてもすぐに凍り付いてしまうのでツルハシで割って落としたとか、壮絶な話ばかりだった。やがて23年9月にようやく舞鶴に復員し、7年10カ月にわたる従軍生活にピリオドを打った。私が誕生したのは、その15年後のことである。

 

 

 

 

 実際に第二次世界大戦日中戦争)に従軍した、つまり実際の戦場をその渦中で生で体感した父親の体験談やそれに伴う思いを生前聞いてきたことが、現在何とかリベラルな思考を持てるようになったきっかけだと思っている。自己中心的な考えしか持てない俗にいう“ネトウヨ”って、どうも私と近い世代に多いらしく、何とも嘆かわしい限りだが、同世代でも私のように“遅く生まれた”者でないと、戦場の体験を聞かせてもらえる「父親が元軍人」って境遇にはならないようなんで(多くがせいぜい戦争を国内で幼少期に体験した層が親)、この感覚は体感できなかかったのかもしれない。そういえば、これも先日観賞した『ゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃』で、泥酔した主人公の由里(新山千春)を自宅まで送り届けた武田(小林正寛)が、出迎えた立花准将(宇崎竜童)と鉢合わせて、「ガチガチの軍人」ってビビるシーンがあったけど、ウチの父親もそういう意味では元“軍人”だったんだよな……。

 

 前述の2作品と同様、呉を舞台にした拙作『特命探偵☆葛城アキ~郷土の怒りをぶちまけろ~』には、元海軍工廠で働いた父を持つ、機械製作所社長・最上が登場するが、劇中語られる彼の父親の設定は上記の父の境遇を模したものだった。奇しくもこの最上を演じた青木潤さんは、私と同い年だった。

 

 ちなみに今日8日は、件の父親の誕生日である。今年で生誕102年。仮に病魔に襲われなくても、『男たちの大和』公開には間に合わなかったかも知れないけれど、こうやって時には父親に思いをはせるのもまた、大切なことかもしれない。