神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

継ぐのは誰か?

 既に全5作のシリーズの他に、ティムバートン監督による リ・イマジネーションストーリーの『PLANET OF THE APES』、そしてリ・プートシリーズの『創世記』『新世紀』『聖戦記』が制作された『猿の惑星』シリーズ。しかしながら何といっても衝撃的だったのが、オリジナル第一作ラストの“自由の女神”のシーン。むしろあそこで『猿の惑星』のすべてが終わっていればよかったのに、って思うくらい強烈な余韻を与えてくれた、まさに映画史に残る名シーンだった。

 

 

 この『猿の惑星』がシリーズ化され、既にこれが地球のなれの果てであることが分かって以降、どうして人類が猿に取って代わられたのかのつじつま合わせが必要になってきた。そこで、人類の身近なペットであった犬と猫が謎の疫病によって絶滅し、その代わりに猿がペットになっていったが、人間と寄り添ううちに知能が上がった猿を、人間がやがて奴隷のように扱い始めたが、ある猿を中心とした人類に対する謀反によって、人類は猿に屈した、云々といったストーリーが出来上がった。そのリーダー格の猿が初めて口にした人語が「いやだ」だったそうだ。

 

 そんな猿のリーダーであるシーザーは、『続猿の惑星』ラストで、新人類の核ミサイルによって地球が破壊される直前、テイラーたちがのってきた宇宙船に乗り込み、核爆発の影響で現代の地球にタイムスリップしてしまったチンパンジージーラ・コーネリアスの遺児という設定になっていた。これならば、『ドラえもん』におけるのび太の曾孫であるセワシが、のび太ジャイ子の間に生まれた子孫であるのにもかかわらず、ドラえもんを未来から現代に送り込んで、のび太をしずかと結婚させるという、タイムパラドックスのような事態は起こらない。半面、それならば一体何がきっかけで猿が人間以上の知性を身につけたかが全く説明できない、という別にパラドックスを生んでしまう。しかもこのオリジナルのシリーズは、猿人間の共存、という形でラストを迎え、第一作の世界観とリンクしないまま幕を閉じてしまう。ここにはいつの間にかこの作品に“人種差別”を暗示するテーマを盛り込んでしまったかららしい。だからこんなことになるのならば、第一作で幕引きしていた方がよかったんだおうって、つくづく思ってしまう。

 

 そんなオリジナルのシリーズの矛盾を上手く説明できたのが、リ・プートシリーズだろう。猿が知性を獲得するまでの過程は、オリジナルのネタとは異なるが、勿論こちらの方が説得力もある。それと、猿の謀反による人類との攻防戦という設定よりも、同時に猿の知能を飛躍した薬が、逆に人類を滅ぼすウイルスだった、ってアイディアの方が、だから人類が衰退し猿に取って代わられたんだと、素直に納得できる。

 

 

 ところで今回、『猿の惑星』を話題にしたのは、実はこの点なのである。『猿の惑星・創世記』及び『猿の惑星・新世紀』では、このウィルスは「猿インフルエンザ」と呼ばれ、一部の抗体のある人間を除いてほとんどの人類を絶滅に陥れた、って設定が、何とも昨今の新型コロナウイルス禍とダブって感じられたからである。勿論、このALZ113(猿インフルエンザウイルス)といい、『復活の日』のMM88病原体(イタリアかぜ)といい、架空の病原体で、流石に昨今の新型コロナと比べることはバカバカしいだろう。だがもし、この新型コロナが人類にしか感染しない、そして致死率も意外に高く且つ現時点でコントロール出来ないウイルス・病原体だとしたら、もしかしたらこれで人類が滅んでしまうかもしれない。そこで同様の病原体が蔓延する『創世記』『新世紀』の世界観は、単に人類と猿との覇権争いだけでなく、もし人類が滅んだら、この地球を“継ぐのは誰か?”という命題さえも孕んでいるといえなくもない。

 

 すべての生物の生存圏を破壊する核兵器とは異なり、人類のみを絶滅させる病原菌が蔓延したならば、人類(ホモサピエンス)だけが滅んだ地球で、次に地球を支配するのは一体何なんだろう? 類人猿かもしれないし、意外にいかにも地球外生物然とした蛸辺りが取って代わるかもしれない。確かアニメ映画の『かいけつゾロリ うちゅうの勇者たち』は、地球の蛸がとある惑星で進化し、その星の支配者となる話だったし(;^_^A

 

 

 新型コロナウイルス禍の事態が収束するまで、こんな妄想を何度も思い浮かべてしまうんだろうな……