神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

別れの曲~『さびしんぼう』雑感~

 近所の路地で、自転車トラブルによって途方に暮れていた憧れのマドンナ・橘百合子に偶然出くわし、幸か不幸か工具を持ち合わせていなかった故、彼女の自宅まで自転車を届けるべく、井上ヒロキは彼女の自転車を担いで、一緒に福本渡船に乗る。そんな“漫画”のような奇跡的な時間を過ごしながら、映画『さびしんぼう』は最初のクライマックスを迎える。まさに青年男子が憧れる、古典的なシチュエーションだ(;^_^A

 『さびしんぼう』が多くの“男子”の胸をキュンとさせるのは、このようにベタ過ぎるほど男の心情に寄り添ったドラマ展開になっているところにつきる。あのたわいもない、ほとんど会話もない、向島のミカン畑の丘を2人並んで歩くシーンに、まるで息詰まる恋の駆け引きのような緊張感を覚えるのも、ひとえにヒロキの一途な気持ちに共感するからに他ならない。それていて、彼女の右の顔ばかり眺めていた、ってトップシークレットを惜しげもなく披露してしまううかつさにはハラハラさせられたりもするが(;^_^A

 やがて、家の近くで「恥ずかしいから」と、その場での別れを切り出す百合子に、「またね」と声をかけて、踵を返すヒロキ。あたかも恋の成就を確信したかのように小走りに去っていくヒロキを好意的に微笑みながら見守る時、百合子は何を思っていたのだろうか……? そして、その翌日の渡船波止場での彼女の豹変ぶりまでの間に、彼女はいかなる葛藤に苛まれたのか………? あの向島での微笑みと、波止場での取って付けたような無理な仏頂面、そして彼女の思いを伝える託けのプレゼントがよりによって彼の一番嫌いなチョコレートだったというすれ違いにも似たアイロニーさえも、百合子の揺れ動く本心を表現しているように思えてならない。そんな紆余曲折を経て、ヒロキは再び訪れた向島で、図らずも人格者であろう今は療養中の彼女の父親の存在と、物故した母親の事実、それ故決して豊かではない彼女の生活を垣間見てしまう。貧困故、彼の愛情を受け入れかねる百合子の複雑な心境。その全てを察したであろうヒロキは、それでもピアノのオルゴールを彼女に差し出す。そして最後の最後で彼女から改めて別れを告げられて、オルゴールの「別れの曲」が流れる中、その場を立ち去っていく。でもそこには失恋の悲しさよりも、もっと違う感情が渦巻いていたであろう。

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 そう思うと、失恋したのはヒロキだけでも、彼の母親の化身・タツ子だけでもない、百合子さえストイックに生きなければならないという点では、同じ“失恋者”である。そんな切ない登場人物によって、『さびしんぼう』は更に純度の高いファンタジーとして昇華していくのである。