4人の「さびしんぼう」~『さびしんぼう』雑感~
『さびしんぼう』において、主人公が憧れるセーラー服姿のマドンナ「橘百合子」と、主人公にかつての憧れの彼氏をダブらせる母親の化身「田中タツ子」の2役(厳密に言えば4役)を華麗に演じきった富田靖子。当時彼女はまだ16歳。デビュー作である『アイコ十六歳』と次作『ときめき海岸物語』で既に主演経験はあるものの、まだまだ新人といっても過言ではない彼女が、こんな難しい役どころをそつなくこなしていることは特筆に値する。しかも、「活発な娘」といったイメージが前述の『アイコ十六歳』以降定着しつつあった彼女が、コミカルで奔放な役柄の田中タツ子ならばいざ知れず、その真逆のキャラといってもいい清楚な百合子を演じることには、当初は多少の違和感を持ったものの(“マドンナ”と呼ぶほどの“絶世の美女”でもないしヾ(--;))、その演技力の高さから、今となっては富田靖子以外、この役は考えられない位に見事だったと記憶している。
さて、本作のタイトルでもある“さびしんぼう”は、主にピエロのような風体をした母の化身・タツ子のことを指す名称ではあろう(彼女は自らそう名乗るし……)が、エンドロールで流れる富田靖子の役名は「さびしんぼう」のみで、本来それに並ぶべき「橘百合子」「(ヒロキの)未来の妻」「(ヒロキの)未来の娘」のテロップは存在しない。あたかも百合子もタツ子も未来の妻子も「みんなみんな『さびしんぼう』なんだ」と言わんばかりに………。これもまた大林宣彦監督お得意のロジックだと思うが、右側のみヒロキ(そしてその先の我々観客)に向ける構図の「百合子」、その真逆のアングルの「未来の妻」、セーラー服を身に纏い右側の表情を晒しながら「別れの曲」を弾く、まるで百合子と妻の結晶のような「未来の娘」、そして“父(母)性”と“憧憬”というヒロキが前述の3人の女性に注ぐ感情をそのままヒロキ自身に注いでいる母の化身「タツ子」という4人が一体になって、初めて一人の人格「さびしんぼう」を形成する、その4役をこれまた「富田靖子」という一人の女優の身体が物理的に演じるという、眩暈にも似た“パラドックス”とでもいうべきスペクタクルが、この映画の根幹をなしている。
だから、もしかしたら百合子もタツ子も未来の妻でさえ、ヒロキの幻想に過ぎなかったのではないか、という別の結論も考えられなくはないわけで、そこら辺が本作をハッピーエンドともアンハッピーエンドともつかない不思議な作品に仕上げている所以なのかも知れない。