「映画」は所詮、伸るか反るか……
『太陽を盗んだ男』……ここまで「原爆」ネタをブラックなアクション娯楽エンターティメントに仕上げてしまった作品は他に類がないと思う。それもこれも、長谷川監督自身が“胎内被爆者”だったからこそ許されたのではないか、と思う。仮に原爆には縁もゆかりもない監督が、ここまで荒唐無稽な「原爆」ネタ映画を撮ってしまったら、さすがにどこぞの団体や“自称・正義の味方”のクレームを受けた可能性は否めない。自身に「被曝」という重いテーマを内包しつつ、「中学校の物理教師が原爆を自分の手でこしらえる」「原爆を武器に国家を脅迫して要求したのが『プロ野球中継の延長放送』『ローリングストーンズの日本ツアーの実現』だった」などなど、あまりのも人を喰ったテーマで、どこかタブー視されてきた「『原爆』ネタのゴラク映画」を撮りきってしまった長谷川監督の外連味には正直脱帽するし、こんな凄い映画を撮ってしまったら、もう映画を撮らなくても満足だろう、ってことも感じたりする。丁度コッポラ監督の『地獄の黙示録』を見終わったときにそう思ったように……
でも、長谷川監督自体もそう思っているの定かではないが、この『太陽を盗んだ男』と処女作にして「親殺し」「近親相姦」といったタブーをゴダイゴの軽妙な曲で包みながら力業で映画にした『青春の殺人者』の2本を撮った後、彼は未だ監督の肩書きのまま、何十年にわたって「無作状態」を貫いている。例えば、「ディレクタースカンパニー」が誕生しそして衰退消滅していったのも、関係者が長谷川監督の新作に期待して集まりながら、結局撮らなかったことが遠因で、ディレカンは消滅してしまったとも聞く。長谷川監督自身も、いくつかの企画を立ち上げながら、自らの手でそれらをことごとく“オクラ”にしてしまってきた。
これは一つに、「『太陽を盗んだ男』を超える自作品を撮らなければならない」との重圧に心が押しつぶされているからかもしれない。そんな気持ちは、インディーズながら常に向上心を持って「あすなろ」で頑張ろうと自分も思っているので、何だか分かるような気もするんだけど……でも、かの黒澤明監督を例に挙げても、彼の最高傑作と呼ばれる『七人の侍』を、後の彼が超えられてきただろうか……その後何十年もの間、何十本も映画を撮りながら、死後18年を数える今でも、未だ氏の最高傑作は『七人の侍』だ。そして、それでいいと思う。そしてそんなことに気をかけることもなく、黒澤監督は“生涯監督”を貫いたのだから。
長谷川監督にも、残された時間はまだまだいっぱいある。「次は善作を超えなければ」なんて重圧なんか吹き飛ばして、うんとカジュアルに、映画を撮ってもらいたい。別に“B級ゴラク”でもいいんだし(むしろそっちの方を指示する(;^_^A)、さくさくって撮ってほしいよね、新作(^^)
だって「映画」、所詮「伸るか反るか」の世界なんだから……(;^_^A