神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

「昭和」だから許された……

 「昭和“ゴラクオペレッタ」の称号がお似合いの三池監督版『愛と誠』において、その“オペレッタ”パートで流れる劇中曲の「激しい恋」(オリジナル・西城秀樹)と「空に太陽がある限り」(オリジナル・にしきのあきら)の2曲は、共に“狂おしいまでの相手への愛”に満ちあふれている。同じ劇中曲でも、諦観漂う「圭子の夢は夜開く」や、意外にクールで冷めた歌詞の「また遭う日まで」、ささやかでいじましい「あの素晴らしい愛をもう一度」などと比べると、この2曲の開けっぴろげな感情は突出している。2曲とも、まるで「ストーカー」のような歌詞とも言える。

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 例えば、AKBの「フライングゲット」を、彼女らではなく、「南海キャンディーズ」の山ちゃんあたりがしたり顔で歌ってたら、きっと「オイオイ」なんて思ってしまうかも知れない。あの曲は本来“ゲット”される側に位置するであろう子らが歌ってるから何とか生臭くなく聴けるのであって、その点、上記の2曲は“色男”とは言え、男っぽさをメラメラと発散させる「ヒデキ」と「スター・にしきの」なんだから、当時の若者はいったいどんな気持ちでこの曲を聴いていたのか……ちなみに私もリアルタイムでこの歌を聴き。歌いもしたが、まだまだ思春期前の青臭いガキの頃……歌詞の意味なんてお構いなしに歌っていたっけ……(;^_^A

 でも……とここで自分なりの見解を書いてみたいんだけど、あの当時は、今のようなストーカー行為が蔓延してはいなくて、この歌詞にそれほどのいかがわしさを感じることもなかったんじゃないか、って考えてしまう。両曲とも、相手への狂おしいばかりの一途な愛に充ち満ちている。「辞めろと言われたら余計に燃え上がる」とも、「愛してる~空に太陽がある限り(つまり永久)」とも歌い上げている。でもそこには、うちに秘めた爆発しそうな熱い思いがあるのであって、それを踏みとどまる、本来の男のあるべき姿も同時に内包しているようにも思える。また、男からの一方的な恋心に困惑しながらも、その後その当人と触れ合うことによって相手を理解し、自分への思いの熱さに観劇し、やがて結ばれる、ってメロドラマは、昭和の時代にはいっぱいあった。逆に、相手の幸せを考え、敢えて身を引き、自分の感情を殺して“恋のキューピット”役を買って出る、ってドラマ・映画も多かったよなぁ……文太兄ィの『トラック野郎』シリーズなんて、全作全編それだったもの(;^_^A

 狂おしいまでに相手を愛するって、本来そうあるべきなんじゃないのかな。そこまで惚れ抜いたら、その人に幸せになってほしいじゃん。それが我慢できないのなら、それって恋愛というよりは「独占欲」なんじゃないかな……まあ、これは敢えて「ストーカー行為」に走ってしまう輩を戒めようと思って書いてるんだけどね……

 それにしても、アイドルを応援するとか、映画ドラマの世界の俳優に憧れる、といった行為は至って健全だと思う。しかしながら、相手のことに一切思いを馳せる心遣いもなく、一線を越える“勘違い”者である“ストーカー”が残念ながら男女問わず存在する現代・平成の世では、件の2曲はどこか「アブナイ」歌のように思えてしまうけど、そんな歌詞が許された、そしてもっと人間が“大人”だった昭和の時代に、また思いを馳せてしまうのである(;^_^A

 ちなみにウチの新作は“昭和”の方のノリです(;^_^A