神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

ゴジラはやっぱり『日本』なんだ……

 かつて国際司法裁判所で“核兵器国際法違反か否か”が議論されたとき、唯一の被爆国であるはずの日本国政府が、広島・長崎の声を無視して、明確な“違反”の意思表示を示さなかったことは、世界中の落胆・批判を浴びた。映画『ゴジラ対メガロ』を観るにつけ、そんなことを思い出してしまう。
 
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 wikiによると、この作品は低予算故僅か2週間で撮り上げられたそうだ。それでも一応特撮映画として成立し、しかも興行収入を上げた訳だから、“早撮りインディーズムービー”“低コストハイリターン”を目指す私にとっては、それこそお手本のような映画かも知れない。しかし、この作品はそんな撮影条件以前に決定的な問題をはらんでいる。
 
 この作品は、地底王国シートピアが、相次ぐ“地上人”の地下核実験でその生存空間を破壊されたことに業を煮やし、遂に思いあまって自分たちの守護獣“メガロ”を地上に送るという設定である。シートピアの神殿で住民が舞うモブシーンや、守護獣が昆虫系怪獣という点からも、かの“モスラ”のインファント島とダブって仕方がない。そのインファント島も、かつては地上の楽園と言われながら、相次ぐ核実験によって死(受難)の島となったという点では、シートピアと同じだ。
 
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 発想を変えれば、核実験に翻弄されたインファント島の小美人が、遂に核実験を止めさせるために、モスラをロリシカ国に遣わす話に置き換えても通用する設定なのだ。だが、それを迎え撃つのは、今や人類(地上人)の用心棒と化したゴジラ。そうなると全く違った設定の『モスラ対ゴジラ』が拵えられてしまう。実は『ゴジラ対メガロ』はそんな話だ。
 
 核実験抗議なのに、何故か核保有国でもない日本で暴れるのは、まるで自国ではない地で代理戦争を繰り返す大国のエゴそのものだし、ゴジラにしたってその出自を考えると人類の核実験によって生存の地を追われた、“人類の核”に対する怒り、いわばヒロシマナガサキ第五福竜丸の代弁者だったはずだ。そんな“核の落とし子”のゴジラが、何と核に抗議する平和な民のやるせない怒りを粉砕する側に回るとは……
 
 ご存じの通り、ゴジラの出身は大戸島、つまり日本である。となるとゴジラは、核の洗礼を唯一受け、核廃絶に最も邁進できる立場にありながら、戦に負けたとはいえ、その加害国に遠慮して「核兵器は是」論に荷担するこの国の姿を、全く生き写しにしているではないか。
 
 もしかしたら、この作品の台本は、そんな日本のことを皮肉ったつもりで書かれたのかも知れない。ただ仮にそうであるとしても、この表現はあまりにも稚拙だ。あたかも、核の脅威をアートするために、広島の空に「ピカッ」という雲字を描いた某芸術集団のように………
 
※この文章は、かつて6年前に別のブログで掲載した内容です。