神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

今こそカープと「球心」

 私の父の命日と同年同日、父とは一歳上の、広島にとって著名な存在が同じように世を去った。津田一男氏である。

イメージ 1


 昭和50年の広島東洋カープ初優勝をリアルタイムで知る者にとって、中国新聞で連載されていた「球心」を知らない者はいないだろう。試合結果とは別に、その日にカープについて言及したコラム。「勝って奢らず、負けて腐さず」をモットーに、当時のカープファンにとって、広島人にとって“バイブル”のようなコラムだった。そんな津田氏の経歴を描いたローカルのドキュメンタリーを見つけた。



 今でこそセリーグ3連覇を遂げた広島東洋カープながら、昭和50年を迎えるまでは、リーグ優勝なんて口にするのもおこがましい“お荷物球団”だった。戦績は二の次、いかにして“存続:するか”に腐心した、典型的な“ローカル貧乏球団”だった。しかしながら、原爆禍からの復興に燃える広島人の過剰なる期待を胸に秘めたチームでもあった。そんなファンの気持ちを代弁し、且つファンの溜飲を下げる役割を果たしたのが、津田一男氏の「球心」であった。正直、当時我が家での定期購読していた中国新聞のスポーツ欄では、試合結果よりも「球心」ばかり読んでいたような気がする。

 そんな津田氏の特別な1975年10月16日(初優勝の翌日)の「球心記事がこちら

イメージ 2


 真っ赤な、真っ赤な、炎と燃える真っ赤な花が、いま、まぎれもなく開いた。
 祝福の万歳が津波のように寄せては、返している。
 苦節26年、開くことのなかったつぼみが、ついに大輪の真っ赤な花となって開いたのだ。
 カープは春の初め、はち切れそうなつぼみをつけても、開くことのない花であった。
 花の咲かない雑草であった。
 来る年も、来る年も・・・
 原爆に打ちひしがれた広島の人びとの心のよりどころに、と結成されたカープ
  カープは原爆の野に息吹いたペンペン草、踏みにじられ、見捨てられても、屈することのない雑草であった。
  それ故にカープファンは、いつの日か花開くことを夢見て、愛し続けてきたに違いない。
 海の向こうからやってきたルーツおじさんは、この雑草を一年間じっくり観察した。
 そして、二年目、「咲かせてみせましょう」と乗り出し、入念な手入れをすませると、さっさと帰っていった。
  つぼみは日ごとに赤みを増し、生き生きと膨らんでいった。
 水枯れの夏にも屈せず、台風の秋にも折れず・・・
 十月十五日、つぼみはついに真っ赤な花を咲かせた。
  なんと長い、待ちに待ったその瞬間であったことか。
  宙に浮く古葉の姿が涙にかすむ。
  古葉もまた泣いていることだろう。
  浩二はお立ち台で、コブシで涙をぬぐっている。
  そして外木場が、大下が、三村が・・・
   みんな抱き合って・・・
  広島の街は喜びの人々であふれていることだろう。
  よかった。
  本当によかった。
   そして、この喜びを、今は亡きカープを愛した人人に告げ、喜びをともにしたい。
   カープを、いまわの際まで愛し続けたみなさん、見ましたか、カープのきょうのこの快挙をー。
   この一年、不撓不屈、明るく勇ましく、一丸となって戦ってきたカープの集約された姿がそこにありました。
   強運の大下がたたいた、あの先制点。この1点、守り切るぞーとまなじりを決して投げた外木場。
   あとは任せておけーと不死身の金城。
   そして最後にはホプキンスの3ランがついに、ついに、”V1”へのさん然と輝く栄光の橋を手ごたえも確 か
    にかけた。
   あの虹の橋を何度夢見たことか。
   その虹の橋が、いまはゆるぎない鉄の橋となり、その上で赤い帽子のナインが、涙の笑顔で手を振ってい
    る。
   幾万ものファンがその下で万歳を繰り返している。
   真っ赤な花、炎と燃える真っ赤な花がそれである。

 「キングギドラ」と同い年で、戦後の悲惨な状況を体験することなく育った身としては、原爆投下後の広島で、したたかに且つ強靱に生活した先達の広島人にはただただ圧倒されるばかりだか、そんな広島人が愛し、タル募金までして球団の存続を図ったカープが、今やセントラルの頂点に3年連続居座っている現実は隔世の感がある。

 今はただただ頑張って、日本シリーズで素晴らしい結果を残せるよう祈念してやまない。