神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

灯籠は流れ、流れ……

 今日は8月6日。ここ近年、カープサンフレッチェといったスポーツの話題やこの地を舞台にした映画のヒット、数多の地元ロケ作品の放映といった現象も相まって、地方都市としては比較的知名度が高くなってきた広島ではあるが、やはりこの「1945年8月6日8時15分原爆投下」「人類最初の被爆都市」という“負の歴史”を背負う、という、“逆説的な平和都市”として全世界にその名を知らしめた「ヒロシマ」の方が余りにも重い。

 そうはいっても、平和式典の模様が全国ネット・各局同時放送になったのここ十数年のぐらいの事ではないだだろうか。そうやって多くの人々とこの事を共有できるようになったのは確かに有り難いことだが、反面“イベント化”も急速に進んでいったようにも思う。だから核兵器禁止条約に反対を続ける国家元首が詭弁を並べるこのイベントの茶番差にうんざりするんで、式典には余り興味がない。

 そこで夜の“イベント”灯籠流しが一段落ついた頃に、車を走らせ元安川下流に足を運んだ。そこにはポツポツと流れる灯籠の姿があった。

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 自分たちはこの地で原爆の惨禍に遭い、命を落としてしまった。遺体すら残さず……それで自分の家族は自分の死を認めようとせず、いつになっても灯籠を流してくれない。友達は皆灯籠を流して貰って成仏できたのに、自分一人この地にとどまったまま成仏できない……そんな少女の霊が、この地に訪れた少年頼んで、友達が成仏した瀬戸内の海岸に、電車に乗って連れて行って貰う……そんな映画を撮ったことがある。また海岸に打ち上げられた灯籠の残骸に入っていた古ぼけた写真によって、フルート好きの不思議な少女が被爆死した当時の女学生だったことに主人公が気付く、という映画も撮った。自分なりにささやかな平和への希求のつもりで撮った映画たちだった。

 灯籠はやがて海に流れていくのだが、その多くは海にたどり着く前に朽ちてしまう。その儚さを確か松谷みよ子の「ふたりのイーダ」の中で読んだ記憶がある。イベントとしての平和式典、本当に反核平和を希求しての平和式典。いろいろな思惑を背に、また今年の「8・6」が過ぎていく……