神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

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東プロ・維新・監獄~波乱の人生~

 70年代の新日本プロレス。当時タイガージェットシンとタッグを組んでいる上田馬之助が、日本人なのに髪を金髪に染め上げて、外国人ヒールのごとく暴れ回る姿には、とても違和感を覚えたものだが、同様にマサ齋藤も、何でこんなに“悪役”なんだ、っていつも思っていた。まあ、当時は何もしらない小中学生だったもので……(;^_^A

 やがて、プロレスの酸いも甘いも嗅ぎ分けられるようになってからは、はぐれ国際軍や、革命軍というか維新軍といった「反体制側」に荷担していくようになり、ヒールのイメージの強かったマサ齋藤が、いつの間にか頼もしい存在へと変わっていった。またその厳つくゴッツイイメージとは裏腹に、何ともとぼけた、それでいて“バカ”がつくくらい実直な性格も知れるようになり、愛すべきレスラーとして観るようになった。

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 そんなマサ齋藤は、かの豊登のこしらえた、当時絶対無比の存在だった日本プロレスの向こうを張った、まさに「反体制」の先駆けとものいえる「東京プロレス」の旗揚げメンバーだったわけで(もっとも、旗揚げメンバーしかいない団体だったけど……)、ここら辺も彼のその後の波乱の人生を暗示していて、なんとも興味深い。アメリカ参戦時に傷害罪で投獄されるも、そこで「監獄固め」なる新技を開発するなど、決して転んでもただでは起きないたくましさ、したたかさを身につけたレスラーだった。体を観ても「たくましさの権化」だったし……

 ただ、個人的には、晩年の決して向いていなく本人もしんどそうにやっていた解説者時代の愛くるしい解説ぶりが一番印象に残っているかな……

 それにしても20年近くパーキンソン病で闘病生活を送っていたなんて知らなかった……それだけに今は安らかに眠ってほしい……合掌



 アントニオ猪木との死闘「巌流島の戦い」などで伝説を築いたプロレスラー、マサ斎藤(本名・斎藤昌典=さいとう・まさのり)さんが14日に死去したと、所属事務所の健介オフィスが16日、発表した。75歳だった。斎藤さんは2000年にパーキンソン病を発症し、リハビリに励んでいたが、事務所によると14日未明に容体が急変した。通夜・告別式は家族・関係者と都内で行う予定としている。

 「Go For Broke!(当たって砕けろ)」をモットーに、武骨なファイトスタイルでリングを盛り上げた昭和の名レスラーが旅立った。

 関係者によると、斎藤さんは2020年東京五輪聖火ランナーになることを目指してリハビリに励んでいたが、14日未明に容体が急変。同1時5分に息を引き取った。倫子夫人はマスコミ各社に向けたファクスで「穏やかながらも、新たなチャレンジへ向かうような、マサ斎藤らしい力強い旅立ちでした」とつづった。

 斎藤さんは1964年の東京五輪レスリング・フリースタイルヘビー級の日本代表として出場し、65年に日本プロレスに入門した。180センチ、120キロの鍛え抜いた肉体で相手にぶつかっていくスタイルで活躍し、68年からは米国にも進出。ヒール(悪役)として活躍した。帰国後は新日本プロレスを経て、長州力の維新軍に合流し、ジャパンプロレスに参加。84年に米国で同僚レスラーの警官暴行事件に巻き込まれ有罪となり、1年半服役したが、この間に得意技の「監獄固め」を開発したと語っていた。

 斎藤さんの人気を不動のものにしたのが、87年10月4日にアントニオ猪木を相手に、ルールなし・レフェリーなし・観客なしの時間無制限で戦った「巌流島の戦い」。激しい流血戦で、照明代わりのかがり火に両者がたたきつけ合った死闘は2時間5分14秒、猪木の「裸絞め」で斎藤さんが失神。TKO負けとなったが、昭和プロレスを代表する名勝負として語り継がれている。

 90年には世界3大王座の1つとされるAWA世界王座を獲得し、99年に現役を引退。その後は長州力のWJプロレス旗揚げに参加し、佐々木健介率いる健介オフィスのアドバイザーなどを務めた。ユーモラスで味わい深いプロレス解説者としても愛された。

 昨年4月に大阪で行われた興行でリングに上がり、ノア所属の弟子、マサ北宮(29)を激励したのが公に見せた最後の姿となった。倫子さんによると、来年のリング復帰へ向けて懸命のリハビリを行う姿は「想像を絶するほどつらく厳しいものでした」という。「当たって砕けろ!」の精神を貫いた生涯だった。