ヒロインアクションは完全無欠なれ
主人公が背負ったハンディキャップが、逆に絶対的強さの「免罪符」となる………そんな時代劇における「ヒーロー」像の“或るあり方”を、ことヒロインアクションに当てはめるとすれば………体力・戦闘能力的に男に劣るはずの女性が「戦闘するヒロイン」として描かれるのならば、これまた逆説的な論法になるが、絶対的に強くなければならない、と思う。
リアルな男性だったら「そんなのあり得ないだろう」というような、完全無欠な強さも、女性なら許されるわけで、そこにはフィクション性しか存在し得ない。それは、多くのハンディキャップヒーローたちが、著しくリアリティを欠いていることからもうかがえる。その狭間に存在するフィクション性こそが、彼らを完全無欠なヒーローたり得ているのである。
だから、戦うヒロインもまた、あり得ない虚構の世界での完全無欠な力こそが作品世界における“リアル”であり、ひとたび、生身の女性を意識し、女性本来の力で戦いのシーンに身を委ねたら、敵の男たちの性差による力の差で、あっという間にねじ伏せられてしまうだろう。「アクション」というフィールドの中で、女性が生身のままリアルに身をさらすなんて、それはもう「ポルノ」であるといっても過言ではない(実際、邪悪な男たちにひ弱なリアルヒロイン(女の子)が蹂躙される、俗に言う“ヒロピン”映像はポルノ扱いだ)。
それ故、ヒロインアクションを構築する条件として、ヒロインは絶対的に強くなければならない……そんな哲学の下、私は現在ヒロインアクション映画を観たり撮ったりしている。