神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

『天気の子』~作家性と娯楽性との狭間で~

 いうまでもなく、新海誠監督の『君の名は』は、日本アニメ界はおろか、邦画界に燦然と輝く“奇跡”のような傑作である。今改めてそう思っている………その新海監督が『君の名は』から3年の月日を経て、遂に待望の次回作を発表した。タイトルは『天気の子』。前作同様、若い男女の恋物語をベースにしながら、SFチックな味付けがなされ、後半にスペクタクルが演出され、しかも音楽が「前前前世」のRADWIMPSと、作品的にも興行的にも“鉄板”で楽しめる映画になると期待していた。それ故今回は、帰省先のシネコンで“劇場観賞”した(ほぼ満席状態)訳だが……興行面はさることながら、こと内容に関しては、どうも上手くノレなかった違和感が残ってしまったよ。

イメージ 1

 映像世界に関しては申し分ない。前作の大ヒットにより、おそらく比べものにならないくらいの潤沢な制作費が注ぎ込まれただろうし、監督の制作に関する発言力も更に強まっただろうから、全編最高技術と監督の妥協なき拘りが結実した、実写と見紛うほどの究極の映像美に充ち満ちていた。たまたま先週東京に旅行してきたばかりだったので、JRの沿線から見える風景や、新国立競技場、森ビル、お台場パレットタウンといった風景は、実に生々しく観ることが出来た。またある種ジブリを凌駕したといっていい、生き生きとしたキャラクターのデザインと演出には、ため息が出るくらいだった。

 そんなアニメの粋を凝らした作品世界なのに、今ひとつと感じてしまったのは、ひとえにカタルシスに欠ける物語展開と、どうしても主人公に感情移入できなかったことに尽きる。それを説明する上で、一部ネタバレもしますので、以下の文章は、気をつけてお読みください

 関東が未曾有の長雨に祟られている夏、高一の帆高は故郷の離島から家出して東京に向かう。しかし何の宛もなく上京した彼に東京の“風”は冷たく、バイトも叶わず生活費も底を尽き、ゲーム喫茶からも閉め出さる始末。仕方なく、雨露しのぎにしゃがみ込んだ悪徳スナックの前でチンピラ風の男に蹴り飛ばされた彼は、その際に、何故か一緒に蹴散らされたゴミ箱の中から本物の拳銃を拾ってしまう。

 そんな彼に好意を寄せてくれたのは、入り浸っていたハンバーガーショップのアルバイト・陽菜。彼女から内緒でハンバーガーを差し出されて一度は元気を回復したものの、行き場を失った帆高は、東京へ向かうの船で知り合った男・須賀を頼り、やがて須賀と彼の姪の夏美の住む事務所で、衣食住込みで、いかがわしいオカルト雑誌の記事を書く仕事にありつく。

 ある日、取材の最中に例のチンピラに強引な勧誘を受けている陽菜を目撃した帆高は、男から陽菜を救うべく格闘しているうちに、以前見つけた拳銃を乱射してしまう。それによってチンピラから難を逃れた2人だったが、その際に陽菜は帆高に自分の不思議な能力を見せる。それは、長雨が続く東京に一時的に晴れ間を作る、究極の“晴れ女”の能力だった。

 母親と死別し、みなしごとなって幼い弟と2人暮らしをする彼女の困窮を見かねた帆高は、自分の仕事をそっちのけで、2人のために陽菜の「晴れ女」の能力をビジネスに活用することを思いつき、その奇想天外なビジネスは徐々に軌道に乗っていく。しかし、家出をした上に拳銃不法所持と発砲をしてしまった帆高は警察に追われる身となり、不思議な能力を持った陽菜は、その能力が“巫女”のようなもので、能力を使いすぎると自身が消え去ってしまうことを悟る。片や家出少年+拳銃不法所持で、片や児童監察のかどで、共に警察から追われる身となった帆高と陽菜姉弟。折しも東京に降る雨はやがて関東全圏の住民を危機に晒す超大型暴風雨となり、自らの運命を悟った陽菜は、関東を救うべく、自分を犠牲にして暴雨風を消滅させる。陽菜を失い、潜伏先で警察の突入を許し拘束される帆高だったが、陽菜が特殊能力を身につけたビルの存在を思い出すやいなや、彼女を救いたいとの使命感に駈られ、署を逃げ出し、駆けつけた事務所の夏美が操るカブに飛び乗り、パトカーを振り切りながら、時として無人の山手線線路を駈け抜けながら、遂に件のビルに到着。警察に先回りされるものの、須賀の機転によって警察を振り切り、屋上の祠へ。そこで彼は遙か宇宙空間に飛ばされた挙げ句、キノコ雲のような積乱雲の上で“昇華”していた陽菜を発見。共に手と手を取り合って、雲の世界から地表へと、東京の街へとひたすら“落下”していく………

 本作を観賞してノレなかった一番の理由は、何といっても主人公であるはずの帆高に殆ど感情移入出来なかったことだ。そもそも彼が家出をして東京に向かった理由が全くと言っていいほど劇中で語られていない。だから東京における彼の困惑も「自業自得だろ」と思ってしまうし、彼の「ここぞ」という時に限っての優柔不断な態度にも辟易してしまう。姉弟の困窮を慮っての行動とはいいながら、結果として陽菜の生命を縮めてしまう「晴れ女」ビジネスを思いついたのも帆高だった。このように、劇中における彼の行動および感情は極めて独占的で(一連の陽菜のために悪戦苦闘する所も、単に帆高の彼女に対する恋慕でしかない)、しかも殆ど空回りしていた。せめて少しでも、彼が何故故郷から家出しなければならなかったのか、もっと明確で観客が感情移入出来るような設定が語られていたならば、物語の展開は変わっていたような気がする。
 
 また本作のスペクタクルといえる、関東を襲う未曾有の超大型暴風雨のシーンにしても、それが『君の名は』の彗星のようにそれによって多くの人名が失われるほどのものでもないし、且つ帆高と陽菜姉弟はその関東に、東京に翻弄されていた訳なんだから、陽菜が自らを犠牲にしてまで“晴れ”にする義理立てもなかったのではないか。その直後ボロ切れのように逮捕される帆高と彼女の弟の凪の姿を見るにつけ、何とも空しくなってしまう。このスペクタクルシーンに関しては、上記のような理由もあり、残念ながらカタルシスを覚えることもなかった。それも本作から映画的面白さを削いでしまった感がある。それ故皮肉にも、彼女らの献身的な活躍も知らず、晴れ渡った空に脳天気な歓声を上げる東京都民の頭上に再び雨が降り始め、それは3年経っても1日とも止まず、遂に東京を水没させてしまうという展開には、思わずほくそ笑んでしまったよ(;^_^A  

 それと、本当は年下だった陽菜が、三歳も年齢を偽って帆高より年上と振る舞っていた設定も、それがどれだけ物語に意味を持っていたのかは理解できなかった。明かされたときも「それがどうした」っていった感じ。前作『君の名は』では、その年齢のずれ(あれも確か3歳だった)、がそのまま時空の捻れを意味していて、その見事な設定の妙にはうならされてしまったが、今回の年齢設定は単なる新海監督の“セルフパロディー”のように感じてしまった。

 結末も意外と淡泊で、空から落下した(であろう)帆高と陽菜は件のビルの祠の下に生死不明で横立ったまま、いきなり時は3年後となり、帆高はいつのまにか故郷の島に戻っていて、地元高校を何事もなかったかのように卒業し(その過程で彼が「保護観察」だったことがさりげなく語られるが)、再び船にとって東京へ向かう。そして以前ともに歩いた線路脇の道で、陽菜と再会する(というかしそうになる)。それでジ・エンド。このラストシーンもどこか『君の名は』を彷彿させるが、あの時はその出会いは物語の根幹をなす重要な場面で、しかもタイトルとも繋がる、まさに見事なラストだったのに対し、今回のそれは「ああ、よかった、よかった」の感慨だけで終わってしまった感がある。そこら辺りも本作がエンターティナー性に欠けるように感じてしまう要因になっているのかも知れない。

 というように、今まであくまで「エンターティメント性の高い娯楽映画好き」の視点で延々感想を書いて来たんだけれど、もしかしたら、新海監督の映画的嗜好は『君の名は』よりも本作『天気の子』の方が強かったのではなかったか。確かに『君の名は』はエンターティメント性に満ちあふれた特上の「娯楽映画」だった。ハラハラドキドキワクワク感も半端なかった。それに対して『天気の子』は、ストーリー展開や雰囲気など前作を何となくなぞっているように見えて、どこか肩すかしを食らわせるような、悪く言えば「煮え切らない」映画だった。しかし、この悶々とした雰囲気“煮え切らなさ”こそ、新海監督の持ち味・本懐”だったのかも知れない。『君の名は』以前の新海監督の作品を観てない段階でこんなことを書くのは憚れるんだけれど、前作の特大ヒットを経て、企画に対する監督の発言力が極めて強くなったこのタイミングで、前作の世界感(物語というより、魅せ場・描き方)を踏襲する“安全策”をとることなく、敢えて今回のようなテーマ・描き方をしたことが、その現れだったように思えるのだが如何だろうか? この点は黒澤明監督が『七人の侍』の大ヒットの次回作に敢えて静かな(それでいてエキセントリックな)反戦テーマの『生き物の記録』を撮ったり、もんた&ブラザーズが「ダンシングオールナイト」のミリオンヒットの次に敢えて真逆なスローバラードの「赤いアンブレラ」をリリースしたりしたのと同義のような気がする。飽くまで作家性に拘っての作品。もっとも、『生き物の記録』も「赤いアンブレラ」も前作と比較してかなり“苦戦”したんだけどね(;^_^A

 それにしても、声優陣では、『シン・ゴジラ』の平泉成が、如何にもの老刑事役を自らのモノマネでもやっているかのように嬉々として演じていたし、僅かなシーンながら、大御所の倍賞千恵子が老婆役で登場したりと、なかなか豪華な配役で、要所には売れっ子の本田翼や小栗旬も配置されていて、このアニメ映画が大作であることがうかがえる。RADWIMPSの起用もしかり。きっと制作側は、『君の名は』の余勢を駆って、それ以上のヒットを願って、持てる“力”をとことん注いで、新海監督の3年ぶりの新作に賭けたのだと思う。しかし新海監督は飽くまで前作に媚びることなく、自分の作家性を貫いた作品を作り挙げた、ということではなかろうか。

 まだ本作の観客動員・興行収益共に公表されていないので何とも言えないが、仮に『天気の子』」の興収が前作ヒットの余波だったとして、この『天気の子』の次の作品がヒットするか否かによって、新海監督の真価が問われるのではなかろうか。それもひとえに新海監督が敢えて“冒険”してくれたことに尽きるんだけれど。

本日アクセス60アクセス217418