「死んで花実が咲くものか」
先の大戦で旧日本軍は戦闘機に爆弾を抱えさせ、操縦士もろとも体当たりする特攻作戦を敢行した。当初は「神風特別攻撃隊」に代表される戦闘機特攻が主流だったが、やがて「回天」のような特殊潜航艇や、ボートによる特攻、果ては潜水服に爆弾を装着して敵艦の下で爆発させる兵器など、狂気の開発が相次いだ。
今日放映されていた『日本のいちばん長い日』(勿論、岡本喜八版!)の中で、鈴木首相に大西中将が「日本の男子の半分を特攻させれば日本は勝ちます!」と必死に意見具申して、逆に「もう勝ち負けなど問題ではない!」と鈴木に一蹴されるシーンがあった。でも鈴木の言うとおり、国民を死なせて勝ち取る勝利にどんな意味があるのか、その勝利は死んでいった者を報いるものであるのか、はなはだ疑問というか、馬鹿馬鹿しくて論ずる気すら起きない。所詮、為政者と財閥のエゴに過ぎないのだから。
ところで、日本では神格化された特攻だが、相手の米軍にはどう写ったか。日本の必死の敢闘精神に畏敬の念を抱いたかと言えばさにあらず、人命を兵器のように扱う日本人に対して更なる憎悪を抱いたのだそうだ。それは、イスラム過激派の「ジパード(聖戦)」が同じ特攻攻撃だが、それを「神風」と同義だと日本人が畏敬の念なんて起こさないのと同じだ。「神風」は神聖で「ジパード」は野蛮、なんて論法は世界では全く通用しない。
それはともかく、広島・長崎への原爆投下という非人道的な行為をアメリカが行った背景には、核兵器の破壊力を世界に知らしめす「人体実験」の意味合いや、日本人が他人種・異教徒だったから(だからドイツでは使用しなkったし、朝鮮戦争では使用を検討した)等々諸説があるが、その中には「人命を兵器のように扱う野蛮な民族」である日本になら非人道兵器の使用も許される、との見識もあったのかも知れない。
特攻で命を散らした当時の若者の無念は計り知れないと思うし、それを思うと胸が痛むし申し訳ない思いに駆られる。しかし彼らを「神格化」することは間違っている。彼らはその純粋な心と徹底した教育によって特攻にかり出された、いわば国家の犠牲者なのだ。まさに「死んで花実が咲くものか」である。だから彼らを勇ましいとか素晴らしいとか考えるのではなく、素直に「かわいそう」「ごめんなさい」と思いたい。
「死んで花実が咲くものか」
今日、74回目の終戦(本当は敗戦)の日を迎えた……
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