『地球防衛軍』に見るミニチュア特撮の“重み”
今年から始まった日本映画専門チャンネルの「東宝特撮王国」も今月がいよいよラスト。その掉尾を飾るのが、東宝初期SFスペクタクル3部作の『地球防衛軍』と『宇宙大戦争』の2本。タイトルからして“王道”だ(;^_^A
そんな訳で、今回は『地球防衛軍』を観賞。本作に関しては、今まで劇場(リバイバル)で、ビデオで、そしてDVDで何度となく観賞してて、シーンによってはセリフを諳んずることが出来るくらい観てきたが、それでも毎回新たな発見というか、新鮮な気持ちで観ることが出来る映画だ。今回も、今まではあまり意識して観てこなかった、前半のモゲラ登場から日本の伝統的な街並みを破壊した挙げ句、防衛ラインとなった鉄橋の爆破に巻き込まれて活動を停止するまでの一連のシーンで、実写と特撮シーンとの大胆且つ繊細な合成カットに改めてため息が出るくらい感心してしまった。中でも実写の放水や火炎放射がモゲラまで到達するシーンの繋ぎのカッティングや、シネスコの横長画面を効果的に使っての、手前(右側)に鉄橋をまたって逃げまどう群衆の実写を配置しつつ、その後方(左側)に彼ら追うモゲラの特撮シーンをインサートする合成カットなど、素晴らしいの一語に尽きる。それも明らかに非現実なミニチュアの画と実写との合資枝から尚更だ。だからモゲラはどう見ても着ぐるみだとわかっていても、思わず映像に引き込まれてしまう。これは別に映像の裏側に興味がある“映画作り”だからではなく、純粋に映画を観賞して楽しむ映画ファンとしての感性でだ。
まだCGという技術が存在しなかった当時ならばまだしも、昨今の実写と見紛うCG画面に慣れ親しんだ今とあっては、どう見てもミニチュア然とした当時の特撮映像を観てそれを信じるのは至難の業だ。しかしながら、如何に本物らしく見えると言っても、映像の上に更に画を描くような技術であるCGに対して、いくらミニチュアとは言っても、当時の特撮はそこに実際に“モノ”が存在することの重みというか実体感が味わえるという点では、負けず劣らず優れた技術だといえる。だから、ミニチュアのα号やβ号がモクモクと黒煙を吐きながら空を飛んでも、いかにもプラモデル然とした戦車(タンク)がノロノロと走っていても、それに搭乗する隊員が合成が上手くいかず透けて映っていても、それでも毎度毎度手に汗握って、都合3回のミステリアンvs地球防衛軍の一大“箱庭”攻防戦を魅入ってしまうのである。
かつての超パニックスペクタクル巨編であった『日本沈没』の、その不可能とも言われたリメイクがいつの間にかこともなげに実現したが、いくらリアルとは言ってもCGによるカタストロフィーシーンも今ひとつ重量感に欠け、安易で薄っぺらな印象をぬぐえなかった。それよりも、オリジナルの、スタジオに組まれたミニチュアの街並みが崩壊していく東京大地震の方が、今観ても実に迫真に迫る恐ろしさで圧倒されてしまう。それがミニチュアとわかっていてもだ。
リアルでしかも安価なCGはこれからも重宝され、特撮=SFXはますますCGにシフトし、いずれ従来の特撮映像は滅びてしまうだろうと危惧はしているが、逆にいつかはCGも質感で限界にぶち当たり、再び「特撮」が求められる時代が来るのではないか、と、もう“還暦”を迎えて久しい『地球防衛軍」を観賞して思った次第。