神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

モノトーンの虚構性

 かつて、黒澤明監督の『天国と地獄』を観た時に、後半のシーンでモノクロの煙突からピンクの煙が立ち上っているカットを目撃して、ひどく興奮したことを覚えている。何だか「ありえないもの」、それ故「観てはいけないもの」を観てしまったような感覚にとらわれて、しばらくの間そのカットが頭からこびりついて離れなかった。

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 このように思ったのは、この『天国と地獄』がモノクロである以上、カラーフィルムはまだ存在していなかった時代の作品のはず、勝手に思い込んでしまっていたからだ。しかしながら、後に黒澤監督は「思うような発色にならない」と、カラーフィルム誕生後も頑なにモノクロフィルムに拘った映画作りをしていたことを知り、だからこそモノクロの映画に一瞬だけカラーのカット(ここではカラーフィルムの煙のみを着色し、それ以外を脱色してモノトーンにしたもの)が出て来たのに過ぎなかったのだ、って納得した。確かに『天国と地獄』が公開された1962年度(1963年3月)には、同じ東宝で『キングコング対ゴジラ』がすでにカラーシネスコで公開された年なんで、それならば、こんな技術なんて“お茶の子さいさい”だったろう(;^_^A

 また、後に若松孝二監督の初期のピンク映画や新東宝・大蔵映画のエログロ怪談などを通して、このような手法を「パートカラー」と呼ぶことを知った。尤も、これらの作品の場合は、黒澤監督のような“挑戦的な使用”と異なり、あくまで低予算故オールカラーの作品など作れなかったため、苦肉の策として用いられた手法であり、実際その多くはカラーフィルムを劇中“カラみ”のシーンのみに多用していたようだ(;^_^A

 ところで、生まれたときから「カラーテレビ」時代を生きてきたせいか、このパートカラー作品を観ると、カラーのシーンでいきなり現実に戻されるような“錯覚”を覚えてしまう。それまではモノクロの映像に没入してしっかり世界観を共有していたにもかかわらず、にだ。何とも艶めかしく、且つ過去から現在に引き戻されるかのように……特に前出の若松監督が時代劇テイストも織り交ぜて撮った『怨獣』や『異常者の血』の冒頭部分など、特にその感覚が強い(時代劇の世界から急に“撮影現場”に変わったような感覚)。

 そう考えると、逆説的ながら、モノクロの画面こそ映画の持つ“虚構性”を際立たせてくれるのではないか、という仮説が立てられる。一般に、というか映像における暗黙の“お約束”として、「現実がカラー、過去はモノクロ」って演出が連綿とされていたが、ここはいっそのこと、SFや未来の設定の映像にこそモノクロを用いたらどうだろうか? 実際新東宝の有名な怪談映画『亡霊怪猫屋敷』で、中川信夫監督は敢えて現代パートをモノクロ、時代劇パートをカラーにするという斬新なアイディアで傑作を生み出した、という先例があるが、それを更に飛躍させて、現在の撮影技術を駆使して、クリアな画面にCGを織り交ぜながら、それでいてモノクロなんてSF映画を撮ったら、さぞやスタイリッシュな作品になろそうである。単なる懐古趣味ではなく、未来に向けての斬新な試みとしてもモノクロ映画……そんな映画を是非観てみたいと思う。

 そんな訳で、私もいつか、本格的な「パートカラー」作品を撮ってみたいと画策している(;^_^A