百合子と一眼レフとタツ子の写真と~『さびしんぼう』雑感~
どうも「24時間丸ごと 映像の魔術師・大林宣彦」の一件に触れてから、自分の中で密かに“冬眠"していた「ファンタジー愛」「大林映画愛」が目を覚ましてしまったようで……(;^_^A 何だか「尾道三部作」のことが頭から離れないようだ。放映までまだ3日もあるってのに……(;^_^A
ところで、当時から「尾道三部作」という括りで語られることが多かった『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』だったが、おそらくその括りが言われるようになったのは『さびしんぼう』からで、その前2作は、大林宣彦監督が地元“広島”をロケ地として撮ったファンタジー作品以上の繋がりはなかったように思える。とりわけ『時をかける少女』では、明確に「広島」「備後」を思わせる設定はないし、ロケ地も「竹原」「三原(三原東高校)」「尾道」「福山(福山大学薬学部)」と分散していたし、もっと言えば「大林少年」を彷彿させる主人公の存在もなかった(堀川吾郎はそれほどでもなかったし……)。そう考えると、案外『転校生』『さびしんぼう』の2本を“尾道ファンタジー”の括りで論じる方がいいのかも知れない。
この2本の映画は、冒頭台詞(モノローグ)によって、現在地が広島県尾道市であることを明確にしている。また、それぞれの主人公である、「斉藤一夫」には8ミリシネカメラを、そして「井上ヒロキ」には35ミリ一眼レフを持たせ、より“大林少年”化しているところも共通している。
ところで、これは飽くまで個人的視点ではあるが、後に自主映画を撮り始め、「8ミリ」というものが20世紀末まで切って切れないくらい身近な存在となっていった自分だが、当時はまだスチール写真を撮ることが一番の趣味だったこともあって、主人公の一眼レフに対する拘りに共感を覚え、やはり『さびしんぼう』の方により思い入れを感じた。
そんなカメラ少年・井上ヒロキの行動だが、彼はいつも愛用の一眼レフを持ち歩いてはいるものの、小遣いも少なくなかなかフィルムを買うことができない。だから彼はいつも、ファインダー越しにいろんな“憧れ”を見つめるが、その瞬間を「写真」として時間から切り取り記録することが出来ない。だからいつも彼はカメラを持ちながら「記憶」ばかり追っかけている。この「フィルムの入っていないカメラ」ってのが大林独特の“ロジック”なのかも知れないけれど、カメラが趣味だった者として、フィルムのないカメラを屋外に持ち出すという行為・心理は、なかなか理解できなかった。ただメカニックとしてのカメラが好きなのならば、実内で楽しめば十分だし、記録の出来ないカメラを持ち出してファインダーから眺めるしかない行為は、空しさを通り越して、無粋な言い方をすれば「覗き」行為だ。ましてや望遠レンズで女子高を覗くなんて、“職質”されたら何の言い訳も通らずすぐに逮捕…もとい補導されるのがオチである。だからこの「時間を記録できないカメラ」って設定は切なさを通り越して、正直当時は違和感を覚えたものだった。そもそも記録できないカメラなんてあり得ないから……これはフィルムの入っていない8ミリカメラでも同様である。
だから、それ故彼が「記録できないマドンナ」橘百合子と小路で奇跡の出会いを果たすシーンは、それまで違和感とじれったさでいっぱいだったので、ある意味爽快感がある。そこから福本渡船に乗って向島に渡る夢のようなシーンは実に微笑ましく、「ロングヘアー」「控えめなリボン」「セーラー服」「チェーンの外れた通学自転車」「夕陽」といった“小道具”が主人公と共に、観賞している観客(勿論男共(;^_^A)にさえ「これでもか」とばかりにたたみかけてくる。どこか「告白」が思いがけず「成就」してしまったかのような展開に、幸福感を胸一杯に彼女と別れて帰って行くヒロキに、その姿を温かい微笑みと共に見送る百合子の構図。何だか我がことのように幸せな気分になったもんだった。そういえば、広島東宝の大スクリーンでこのシーンでの百合子のUPを観る度に、「ああ、俺は今映画を観てるんだ」って毎回実感したことを覚えている(;^_^A

ただこの一連のシーンによって、もはやヒロキの一眼レフはその存在意義を失い、「記録」よりも更に生々しい人間と人間との関係に埋没してしまうことになる。そして最後に残ったのはカメラではなく、その「記録」を象徴する“さびしんぼう”・田中タツ子の写真一枚のみである。常にフィルムが装填され最後まで活躍する『転校生』斉藤一夫の8ミリカメラと比べて、『さびしんぼう』井上ヒロキの一眼レフが今ひとつ活躍できていない(最終的には写真と“痛み分け”)のは、もしかしたら大林監督自身が8ミリカメラほど一眼レフに思い入れがなかったからかも知れないが、逆に前述のように一眼レフに思いを馳せていた私個人にとっては、ちょっと物足りなかった。しかし、一眼レフという媒体があったからこそ、この『さびしんぼう』に人一倍思い入れを持って観、その観賞体験が後の自主映画制作の礎になったことを考えると、素直に大林宣彦監督に謝意を表したいと常々思っている(^^)