神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

裕次郎のモデルは裕次郎を超えて……

 石原プロ三船プロ競作の映画『黒部の太陽』。当時日活から独立して『太平洋ひとりぼっち』『栄光への5000キロ』『富士山頂』『甦える大地』といった、“リアル「プロジェクトX」”な作品をいくつも世に送り出した石原プロモーションだが、そのスケールのでかさ、という点では、『黒部の太陽』が一番だったと思う。

 1979年のテレビ放映で初見し、その圧倒的な映像、世界観に大いに感動しながら、その後「劇場の大きなスクリーンでこそ観てほしい」との裕次郎の遺言を頑なに守ったため、長く再見の機会に恵まれなかった作品でもある。ようやくブルーレイを手に入れて、34年ぶりに観たときは、感動で胸がいっぱいになった記憶がある。

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 そんな『黒部の太陽』で、熊谷組の岩岡役で三船敏郎と共に裕次郎も主役を張ったのだが、彼の夭折から30年目の今年7月4日に、彼の役のモデルとなった、実際に黒四ダム建設で指揮を執った笹島信義氏の訃報がマスメディアを流れた。享年99歳。実際に黒四ダムの建設が行われたのが1956年で、『黒部の太陽』が公開されたのは1969年。当然ながら、裕次郎が演じたのはリアルな笹島氏の若かりし頃の姿となる。そんな裕次郎が早逝したこともあるが、自分の若い頃を演じた俳優が亡くなってなお30年も長生きしたことは、“大往生”といってもいい位の人生だったに違いない。

 確かにダム建設も環境破壊には変わりないが、同じ電力を供給する原発と比べたら遙かにマシだ。そんな巨大なダムを多大な義弟を払いながら建築に尽力した笹島氏は、その一点だけでも偉大な人物だったと言えるかも知れない……合掌




 故石原裕次郎さんが主演した映画「黒部の太陽」の主人公のモデルとなった笹島建設会長の笹島信義(ささじま・のぶよし)氏が1日、死去した。99歳。入善町出身で自宅は東京都内。通夜は9日午後6時半、葬儀・告別式は社葬で10日午前10時からいずれも東京都港区南青山2丁目の青山葬儀所で行う。葬儀委員長は同社社長、笹島義久氏。喪主は孫、昭人(あきひと)氏。

  1943年から土建業に従事。45年に熊谷組笹島班を組織し、56年から関西電力黒部川第四発電所(黒四)の建設に携わった。64年に笹島建設を創立し社長就任。トンネル工事を専門に青函トンネルなど国内外で数多くの施工実績を積み重ねた。90年から現職。2013年に瑞宝単光章を受章した。

  黒四建設では熊谷組笹島班班長として、ダム建設の成否を握る「関電トンネル」の掘削を担った。大量の地下水が噴出する大破砕帯を7カ月かけて突破。日本土木史上に残る難工事は「黒部の太陽」として映画化された。

  親交の深かった熊谷組の大田弘相談役=黒部市出身=は、1日に北日本新聞越中座で開かれた「平成広徳塾」の講義で、笹島さんがダム工事の作業員名簿を「最大の財産」と言っていたことを紹介し、「出身から家族構成まで全て頭の中に入っていた。作業員の体や家族を気遣う言葉を掛けていたようだ」と話していた。同相談役は訃報に接し、「困難に直面した際のリーダーの在り方を教えてくれた存在。不撓不屈(ふとうふくつ)の精神は今後も語り継がれていくだろう」と悼んだ。