神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

広島の、近鉄の、愛すべきヒール 逝く

 プロ野球、というか野球そのものに初めて興味を持ったのが1975年夏のオールスターゲーム以降。何を隠そう、地元広島東洋カープが初のリーグ優勝を遂げた年だ。その年、同じくまだ優勝経験のないパリーグ近鉄バファローズ(当時)が2シーズン制の後期優勝。そこで「広島対近鉄」の初優勝同士の日本シリーズを期待したものの、当時のプレーオフで、その近鉄に立ちはだかったのは、前期優勝の阪急ブレーブスだった。プレーオフ近鉄を下した阪急がそのまま日本シリーズで広島と雌雄を決し、初優勝の余韻を一気に醒ましてしまう4勝0敗2引き分けの圧倒ぶりで、広島を下し日本一に輝いてしまった(後で知ったが、歴史ある阪急の、それが初めての日本一だったらしい……)

 その後、前シーズンの余韻からか、広島以上に近鉄に肩入れし、何故かパリーグに興味を持った私にとって、近鉄にほぼ全勝する当時の阪急は、尚更大嫌いなチームとなってしまった。1978年のプレーオフも、結局後期優勝の近鉄は、阪急に負けてリーグ優勝は叶わなかったし……

 そんなわけで、上記の時代、阪急ブレーブスの監督を務めた上田利治という人物は、私にとって究極の“ヒール”だった。それが、件の78年日本シリーズで、ヤクルト・大杉の大ファールをホームランとジャッジされて必死の抗議をしたものの受け入れられず、結局日本一を逃した辺りから、そのヒール感はなりを潜め、しかも元々は広島カープの捕手だったことを知り、以前の様な嫌悪感はなくなっていった。更に、一度阪急を離れ解説者をしている際に西武ライオンズから監督をオファーされながら、敢えて当時の西武より不振にあえいでいた古巣阪急の監督要請を敢えて呑む、という“男気”を魅せた辺りから、むしろ氏を“格好良く”思うようになっていた。

 その後、上昇西武を打ち負かしてリーグ優勝したり、89年には、新生オリックスを率いて、後もう一歩で球団創立年優勝に手か届きそうになったり(結局因縁の近鉄に優勝を奪われる)、北海道に移転する前の日ハムの監督も務め、1986年以来の優勝に手が届きそうになったものの、肝心の西武との天王山3連戦を、統一教会に洗脳された妻子を取り戻すために“職場放棄”し、結局西武にうっちゃられたり、と波乱の人生を歩んできた、と思っている。

 晩年の、阪急・近鉄といったライバル球団同士の“合併”を氏はどのように見つめていたのだろう……そう言えば、78年の日本シリーズで“疑惑の大ファール→ホームラン”を打った大杉勝男氏が早逝した際、蒸し返すように上田氏にコメントを求めた恥知らずのジャーナリストがいたが、その時どんな心境だったのだろうか……今となっては知るよしもない。

 当方のヒロインアクション的には、上記のオリックス(元阪急)・近鉄の強引合併に端を発した球界再編騒動に思いを馳せて撮った『天使諜報★神宮寺真琴~市民の敵は場外へ飛ばせ!~』っていうのがあって、副主人公の名が「牛島あおい」(牛→バファローズ あおい→ブルーウェーブ)だったりするんだけど、この事態にきっと同じ思いを馳せていたであろう上田氏の訃報は、また一時代の終焉を思わずにいられない……合掌

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上田利治氏が死去 80歳 日本シリーズ3連覇、阪急黄金時代築く
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170701-00000157-dal-base
 阪急(現オリックス)や日本ハムの監督を務めた上田利治さんが死去していたことが2日分かった。80歳。徳島県出身。
 上田さんは捕手として徳島・海南から関西大に進み故・村山実さんとバッテリーを組んで活躍。広島に入団したが、選手としては3年で引退。その後コーチを務め、1971年に阪急に移籍。75年、監督就任2年目で阪急初の日本一に導き、リーグ4連覇を含む5度の優勝、日本シリーズ3連覇を果たし、黄金期を築いた。福本豊氏、山田久志氏、山口高志氏、佐藤義則氏らを育てた。
 一度退任した後81年に復帰し、90年に退団。95年から5年間、日本ハムの監督も務めた。
 監督通算成績は1322勝1136敗116分け、勝率・538。1322勝は歴代7位。2003年に野球殿堂入りした。
 1978年のヤクルトとの日本シリーズ第7戦で故・大杉勝男氏の放った左翼ポール際への本塁打を巡り1時間19分の抗議は有名。選手を褒めるときに「ええで、ええで」というのが口癖だった。