「少女たちの『〇〇〇〇』」
因果な話である……
ここに「少女たちの『〇〇〇〇』」というタイトルがあったとする。その『〇〇〇〇』に地名を入れるとして、例えば「少女たちの『おかやま』」とか「少女たちの『しずおか』」とか「少女たちの『おおいた』」っていれても、普通にその土地土地の「少女」について語っているとしか感じない。それがひとたび「少女たちの『ひろしま』」となったら……途端「少女」たちは戦争の犠牲者で既に世になく、しかも原爆の惨禍に晒された、って思わず思ってしまう。同じように「少女たちの『ながさき』」でも「少女たちの『おきなわ』」でも、これはすぐに「戦争」「犠牲者」のイメージが付きまとう(不思議と「少女たちの『とうきょう』」で「東京大空襲」をイメージすることはない)。何はともあれ、因果な話である……
さて、件の「少女たちの『ひろしま』」という著書は実際にある。ノンフィクション作家の梯久美子の『昭和二十年夏、女たちの戦争』に掲載された短編で、教科書などにも採用されている文章である。ここでは、被爆死した少女・女性の当時身につけていた遺品の中に、きらびやかな洋服があり、「なぜ戦時下の広島の女性たちが、そんな洋服を身に纏うことが出来たのか? 許されたのか?」というクエッションを中心に、当時の女性たちの思いを綴った佳作である。
なんでも、戦時下においても「お洒落がしたい」という女性ならでは欲求を満たすため、当時の女性たちの多くは、もんぺの下に「遊び心」でこっそりきれいな洋服を纏っていたらしい。それは「お洒落したから観てほしい」という当然の欲求すら満たされなかった彼女らが「心の中できれいでいたい」という“精神性”による行動だったのだろうか、そのエピソードを知って、まず思い出してしまったのはイギリスの戦争映画『鷲は舞い降りた』(1976年 ジョン・スタージェス監督)だった。
ナチスドイツによる英チャーチル首相誘拐作戦を描いた本作では、作戦を遂行するドイツ空軍兵は、皆誠実でプライドが高く、自分たちのアイデンティティーを誇るために、変装したイギリス軍空挺部隊の迷彩服の下にドイツ空軍の制服を着用していたが、それが徒となり、潜入した英国の村で用水路に落ちた子供を救おうとした兵士の一人が水車に巻き込まれて死に、その裂けた迷彩服の中からドイツ軍の制服が覗いてしまったことで作戦が発覚、その後彼らは絶望的な戦いに巻き込まれることとなる。
「お洒落」と「誇り」の違いこそあれ、隠したる服に自分の“アイデンティティー”を込めた、という点では共通していると思う。
何はともあれ、そんな“アイデンティティー”を隠さなければならない世の中の到来だけは勘弁してほしいものである。