神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

近年ハリウッドアクション映画の“煮え切らなさ”

 最近『スーサイド・スクワッド』『デッドプール』、そして『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』と、ハリウッドのSF大作を立て続けに観たんだけれど、どうも煮え切らない。どうしたものか……?!

 勿論、基本的には邦画が好きで、基本邦画中心で観てるんだけど、時には「ハリウッド発の『何にも考えない馬鹿で派手なアクション』観て“癒やされたい”」と思うことだって多々ある。特に、昨今の混沌とした日本を始め世界の情勢から、日々の困窮し圧迫された生活に至るまで、これだけ“ストレス社会”になっていくと、せめて映画の中だけは「ノンストレスで楽しみたい」との思いに駆られるのも当然のことだ。だから邦画の中でも、往年の『座頭市』の「市」や『子連れ狼』の「拝一刀」、『用心棒』の「桑畑三十郎」、そしてサニー千葉や志穂美の悦っちゃんといった「完全無欠で圧倒的に強い」「予定調和な世界で勧善懲悪を貫く」ヒーロー・ヒロインの活躍する映画は本当に貴重な存在だ。

 しかしながら、最近の邦画のやたら理屈っぽい風潮では、そんなあり得ないキャラはやっぱり「あり得ない」わけで、結局理屈の中で苦悩する主人公の葛藤をいやというほど見せつけられた挙げ句、劇中の主人公はそれなりに“勝手に”自己完結を果たし、置いてきぼりにされた観客が徒にストレスを抱え込まされるようなノリの邦画が相変わらず多い、っていうか、むしろ増えて来たような気がする(その点『ビリギャル』などはハッピーエンドの希有な例だが、それとて「主人公はすでに慶応に受かっている」という事実からスタートしているに過ぎない)。そんな中に完全無欠のヒーロー・ヒロインが付け入る隙はない。

 そんな訳で、疲れた時には自然とハリウッドのアクションに食指が動いてしまう。取りあえず「アメリカ万歳」の欺瞞に満ちたイデオロギーは置いといて、ただただ劇中「悪」と決めつけた非情な輩を完膚無きまでに叩きつぶす、そんな主人公の超人的な活躍に、ひとまず拍手喝采するって楽しみ方を求めるのだ。その対象が仮にナチスであってもイスラム国であってもベトナムであっても反政府ゲリラであってもだ(さすがに「日本兵」てのはちょっとね………)。そこにおびただしい血が流されようとも、徹底的な人体破壊が伴っていようとも、「これは“作り物”の娯楽映画だから」と割り切ってスカッとさせてもらう………そんな映画の楽しみ方が往年のハリウッドにはあった。シリアルキラースコーピオンの憎たらしさをトコトン描ききった挙げ句、ハリー・キャラバンの44マグナムで文字通り吹き飛ばす『ダーティハリー』や、「悪党には死を! そいつが一番の薬だぜ」のキャッチコピーが素晴らしすぎる『コブラ』、更には“ムキムキ超人”の“シュワちゃんが画面に出てくるだけでスカッと笑える『コマンドー』『バトルランナー』『トータルリコール』『イレーザー』といった一連の“馬鹿っぽいアクション”に至るまで、「脳味噌は家に置いてこい」とばかりに「何も考えず馬鹿になって楽しめる映画」は、我々の疲弊した脳を心を癒やしてくれる貴重な存在だったはずだ。

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 だが、そんなハリウッドにさえ、最初の3作品のように、煮え切らない、ていうか苦悩し自問自答を繰り返す、そしてやたらモノローグばかり目立つ“自閉症気味”ヒーローがどんどん増えている、というのはいかがなものか。確かにアメリカの栄光は欺瞞に満ちたものだったかもしれない。他者に対する憐憫の情がヒーローの側にないのも如何なものか、と指摘するものもあろう。星条旗カラーのコスチュームを身に纏う「スーパーマン」や「ワンダーウーマン」しかり、全てがアメリカ中心に回っているわけじゃない。しかし、そんなことは百も承知だし、社会派の映画がキチンとフォローしてるって。もともとヒーローアクションって娯楽なんだから、その世界の中では政治的なことや社会のことなんて何にも考えずに、ただただストレス発散すればいい。それを観てそのまま選民・差別主義や暴力に走る輩がいたら、そいつが悪いだけである。多くの人間は現実と虚構をキチンとわきまえて、例えば映画の世界で「悪い日本兵」がバタバタと倒されるシーンに拍手喝采しても、映画館を出たら日本人(日系人)の友人と心から仲良く出来る、それが普通の世界じゃないのかな?

 「物事の多面性を理解し相手を尊重する」ってのは大切なことだが、ことハリウッドアクションの世界まで「戦う意味を模索する」なんて発想はおかしい話だ。意味がない。だって「周りを慮って戦いを躊躇する」最近の苦悩するヒーローの映画を観てるはずのアメリカ人が、結局トランプを大統領に選んだりするんだから………