神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

どうして彼女らはセーラー服に身を包んで闘うのか……?

 『女子高生ゾンビ』のアイリンも、『ラスト・ブラッド』の小夜も、セーラー服を粋に着こなし、顔色一つ変えぬクールな出で立ちで、日本刀片手にバッタバッタと敵を切って捨てる(アイリンに至っては拳銃まで!)生粋のアクションヒロイン(ていうか“富三郎版”「拝一刀」のごとき刺客?)だが……そんな彼女らがセーラー服に身を包む必然性は……ない?!

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 もともと海軍水兵の軍服だったとか、本来“体操服”として女子校で採用されたのがきっかけだったとか、そんな歴史的背景はさておき、こと映画(ドラマ)の世界においては、『青い山脈』の頃から、セーラー服は、女子中高生の“清純さ”の象徴として、吉永小百合和泉雅子、松原千恵子、吉沢京子ら往年の青春スターの身を包んできたはずだった。

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 それが70年代の、池玲子杉本美樹を筆頭にキラ星の如く登場した『女番長ブルース』『女番長ゲリラ』『恐怖女子高校』といった一連の東映“スベ公”アクションムービーによって、一気に穢されていく。もっとも、ここに登場する“ズベ公”たちは、短ラン制服に長ランスカートと見事にセーラー服を着崩し、彼女らが女子高生であることを示す目的のみに存在する、といっても過言ではない粗末な使われ方をされていたので、意外にもセーラー服そのものの印象を悪くする程ではなかったような気がする。ただ、詰め襟と同様、改造・改変が安易な制服というマイナスイメージを社会に与えたのは誤算だったが……

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 でもそれよりも、ヤクルト・川崎のマンションから“他界”した可愛かずみが主演した『セーラー服色情飼育』のような、ポルノ・ピンク映画の世界で、風営法が改正されるまでタイトルに頻繁にその名が用いられたことのが致命傷だったかもしれない。

 そんな「清純」と「不良」「いかがわしさ」という二律背反するイメージを背負わされたセーラー服の運命に転機が訪れたのは、やはり何といっても斎藤由貴主演の初代『スケバン刑事』の公開だろう(何だよ! またいつものパターンに戻っちゃったよ(;^_^A)。主人公は名こそ「スケバン」でいきがった啖呵を切ったりもするが、どんなに眼光鋭く演じても、ルックスがどうしても“ズベ公”ではない。制服も着崩さないし、ソックスもルーズではない白だ。斎藤由貴演じる麻宮サキでは、どうやっても「可愛らしい優等生」にしか見えない。それで「てめえら、許さねぇ!」とヨーヨー片手に巨悪に挑む姿は、一度“ズベ公”映画で穢されたセーラー服に再び清純さを取り戻すと共に、“清純”と“アクション”を無理矢理融合させる原動力にもなった。その後、南野陽子にしても浅香唯にしても、五十嵐いづみ(『少女コマンドーIZUMI』)にしても仙道敦子(『セーラー服反逆同盟』)にしても、往年の日活スターさながらの清純さを維持しながら、精一杯アクションする、そんな「セーラー服アイドルアクション」路線を推進して今日に至っている。

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 もし仮に、初代『スケバン刑事』が当初の予定通り宇沙美ゆかり主演で制作されていたならばどうなっただろう……おそらく彼女の方が斎藤由貴よりも陰のある、そしてより女番長(スケバン)らしいキツい麻宮サキになっていたと思う。そうなると下手をすればタイトルよろしく“ズベ公”色を払拭することなく描かれてしまい、今日のような作りにはなってなかったような気がする。宇沙美ゆかりが『Vマドンナ大戦争』の主演に抜擢されて『スケバン刑事』を降板することになった時、何故後釜に斎藤由貴が選ばれたのか………そこにどんな“大人の事情”があったかは知るよしもないが、この偶然とも言える“奇跡”が、その後の「80年代東映系ヒロインアクション」の礎となり、未だにアイリンや小夜に継承されているのである。ここに彼女らがセーラー服に身を包んで闘う根拠があるといっても過言ではない。

 そしてメジャー・インディーズ(そしてヒロピンも?)を問わず、セーラー服ヒロインアクションが連綿と撮られ続けていくことだろう……なんてね(;^_^A