神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

『ランボー』  イデオロギーさえも粉砕するアクション娯楽

 正月早々、これも旅先で観てしまったのが『ランボー3/怒りのアフガン』。今まで諸事情あって観ることはなかったんだけど、選択肢のない旅先故仕方なく観ていたら、思ったより面白かったよ(;^_^A

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 俗に云う“ランボーシリース”4部作で未見の『ランボー/最後の聖戦』以外で一番好きなのが『ランボー怒りの脱出』なんだけど、設定自体はかなりえげつない(;^_^A 元々はベトナム帰還兵の悲哀というか、自分たちは徴兵されて異国の地で生死をさまよいながらも祖国のためと頑張ってきたのに、もともとこのベトナム戦争自体が様々な問題を孕んでいたため、政府批判と共に本来国策の“犠牲者”ともいえる彼らが帰国後も迫害を受ける……そんな社会的問題を政府批判も込めてシリーズ第一作『ランボー』(『First Blood』)は撮られている。激しいバトルというより、むしろ陰惨なイメージの方が強かった。

 しかしながら前出の『~怒りの脱出』はやけに脳天気だ。米軍の捕虜が未だにベトナム国内に拉致されているとの“都市伝説”のようなネタで、真正面から“ベトナム戦争”に立ち向かっている。とはいうものの『プラトーン』や『地獄の黙示録』のようなアプローチではない。今回改めて調べてみたが、どう考えても当時の南北に分断されたベトナムの、とりわけ北ベトナムに対する軍事介入としか云いようのないアメリカ(その背後にはフランス)の行為を、ここでは侵攻し結局返り討ちにあったというヒールの立場から、逆に現ベトナムを支援するソ連(当時)を“ナチスドイツ”よろしく徹底した悪者として描くという“ウルトラC”の返し技で「アメリカ万歳」を謳い上げるという、全作の悲哀を全く顧みないかのような作品に仕上がっている。ただ現地でいかにも官僚然として一時はランボーたちを見捨てるCIAのマードックがもう一方の悪役然として登場するのが、前作世界にも配慮した微妙なバランス感覚(さじ加減)か……。尤も、馬鹿馬鹿しいまでに圧倒的で脳天気なアクションによって、一応絡めてある一方的(ご都合的)な歴史認識イデオロギーもその実どうでもよくなってしまう、単なるB級活劇になっているところが本作の素晴らしさだ(^^)  ただし観終わった後「おい“イタリアの種馬よ、そこまで合衆国の“犬”にならなくても……」っていう一抹の寂しさは感じたね(TmT)

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 翻って『~怒りのアフガン』では、80年モスクワ五輪のボイコット騒動の原因となったソ連によるアフガニスタン(アフガン)侵攻ををネタにしている。ここでも自国アメリカがベトナムに侵攻した事実など、スタローンのムキムキの肉体からほとばしる汗の如くどっかに飛び散らしてしまい、結局は「ソ連が諸悪の根源」とばかりに、ソ連のアフガン侵攻(やってることは米国と一緒じゃん!)を糾弾することが物語の柱になっている。それ故そのうさん臭さから、そのタイトルを見ただけでどうも食指が動かない作品だった。

 しかし今回、本作を観賞してこの作品も『~怒りの脱出』同様、イデオロギーを超えたところにあるB級娯楽アクションだったことに気付いた。ストーリーも、自分の唯一の理解者である上官が対アフガン作戦進行中にソ連軍に拉致されたランボーが、自らの危険も顧みず、アフガン独立を目指す現地ゲリラと手を組んで上官救出に向かう、という単純明快なもので、その作戦がまさによどみなく進行していく。誰が見ても憎々しく思えるように描いているソ連軍将校と対決してそれを倒し、上官を無事救出していく過程には、その歴史的政治的背景を明後日の方に置いてきたような、ただただスカッとするが何も残らない、お気軽B級アクションの王道を行く展開があるばかりである。クライマックスの、駱駝や馬でソ連軍の歩兵や戦車隊に立ち向かっていくアフガン戦士のシーンは、あたかも『アラビアのロレンス』彷彿させてしまったよ(^^)

 歴史認識や政治的背景といった見地からすればとんでもない映画なんだけれど、こんなのを見て本気になって影響される輩の方が莫迦なわけで、単純に“勧善懲悪”の娯楽活劇と割り切ってみるには最高に映画だったよ(^^) もっともその政治的背景という見地で云えば、本作の封切前にアフガンにおける和平が成立してしまったり、この時共闘することとなったアフガンのゲリラたちが、歴史上ではのちにタリバンとなりアメリカに“弓を引く”ことになるなど、運命に皮肉としか云いようのない自体があり、本作の興行収入は前作『~怒りの脱出』の三分の一に落ち込んだのだという。