神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

ちょっと真面目に「娯楽映画」について考える

 かの悪名高きナチ宣伝相ゲッペルスが当時のドイツ映画に求めたのは、あからさまなプロパガンダ映画ではなく、むしろ予定調和な娯楽映画だったそうだ。それも“現実逃避”させるような。だからドイツ国内が空襲を受け、国民が過酷な生活を強いられているときでも、ドイツ(ナチ)映画の主人公たちは、戦争とは無縁のきらびやかな架空の世界で優雅な生活を演じる、そんな話ばかりだったらしい。

 以前もそんなことを書いたと思うが、戦時下で為政者が国民をまやかすために用いる手法は、過酷な現実(ひいては政権批判に繋がるような事態)から目をそらせるために、脳天気なラブストーリーや英雄伝であったり、現体制に疑問を抱かせないような、きわめて予定調和なストーリー展開であったりする。そう考えると、予定調和・勧善懲悪な娯楽映画って、その目的を間違えると、きわめて恐ろしい“道具”と化するのかも知れない。

 しかしながら、ナチスドイツの敗戦によってその真の目的・呪縛から逃れたこれらの「ナチ娯楽映画」は、その脳天気な物語展開のおかげで、今なお人々の目を楽しませてくれる。

 まあ、こんなことを、まだその「ナチ娯楽映画」を見たことのない私が、書物の受け売りで語るのもどうかと思うが、“ノンストレスなB級娯楽映画”をテーマに映画を制作している身としては、実に考えさせる事柄だ。

 とりわけ、同じ戦時下において、逆にプロパガンダ映画を、書物を、挙げ句は詩や短歌にまで戦意高揚を強いた日本において、『姿三四郎』『續姿三四郎』のようなアクション映画が、娯楽の少ない当時の大衆に受け入られ、大ヒットしたことを考えると、同盟を結んでいたはずの大日本帝国ナチスドイツとで、同じ娯楽映画でもこのように考え方が異なっていたことがわかり、なかなか興味深い。

 もっとも、娯楽はあくまで娯楽であって、どんな形であれ、為政者に利用される訳にいかない。その点、下世話な大衆娯楽作品にこそ自由と批判精神を盛り込んだ、鈴木則文深作欣二野田幸男山口和彦牧口雄二(そして他社より参入ながら石井輝男御大も)といった、東映プログラムピクチャー監督諸氏には、最大限の敬意をあらわしたい思っている。

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