神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

嗚呼、ハリーハウゼン……

 今を遡ること15年前の98年8月に、“ダイナメーションの神様”レイ・ハリーハウゼン氏が広島に訪れた。これは、広島で開催された「第7回国際アニメーションフェスティバル」の国際名誉会長としての来日だった訳だが、かの「原子怪獣現わる」「地球へ2千万マイル」「アルゴ探検隊の大冒険」などで卓越した「モーションアニメ」いわゆる“ダイナメーション”を確立した超大物だけに、来広の噂を聞いた頃から、非常に楽しみでわくわくしていた。
 
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 そんなある日、うちの映画サークルのメンバーでアニメフェスの実行委員を務めている子から、突然思いがけない依頼を受けた。それは「氏の来日直後のインタビューを手伝ってくれないか」というものだった。どうも氏を呼んだものの、実行委員の中で氏について詳しい者がいなかったため、日頃サークル内でこんな事ばかりいっている私に白羽の矢が立ったようだが、私にとってみれば“神様”のような存在であるハリーハウゼン氏の、おそらくこれが最初で最後となる来日の、最初のインタビューの場に立ち会えるなんて、夢のような話だったので、勿論すぐに快諾した。
 
 そして当日。私はサイン色紙とマジックをしたためて、会場である広島市アステールプラザに足を運んだ。その場には既に実行委員であるメンバーの子と、通訳の外国人男性、そしてその後別の意味で大変な事になってしまう方の3人が待っていて、そこへ合流。すると予定からやや遅れて、会見の場にハリーハウゼン氏が訪れた。最初の氏の印象は、「大きい人だなぁ」というイメージ。実際白人であるということを差し引いても大柄な人物だった。それに年齢の割にはしっかりしている。「そうか、この手で『リドザウルス』や『イーマ獣』『骸骨戦士』などを操ったんだ」と思うだけで、胸はどきどき、心はわくわく! きっと興味がない人にとっては、どうでもいい事なんだろうけど……
 
 いよいよ質問。こんな時は、当たり前だと思うことでも、極力作品のことに触れた方が良いと思い、もう日本のファンでも知っているような内容の質問を敢えてした。「アルゴ探検隊~」の「骸骨戦士」はどのように撮ったのか? 「世紀の謎・空飛ぶ円盤地球を襲撃す」の建物が壊れるシーンを敢えてアニメーションで撮った理由は? 「地球へ2千万マイル」の「金星獣イミール(イーマ獣)」のデザインの発想は? などである。それに対して氏の丁寧な答えも、実は色々な書物で読んだ内容と同じだった。しかし、理解してもらうために日本訳ではなく英語の原題を覚え、作品世界に限って質問したのは、氏にとっても気に入ってもらえたようだった。事実、全体会での講演時に、会場の観客から出る質問は、やれ「どうして巨大な怪獣が登場させるのか」とか「破壊シーンが多いのは、貴方の深層心理の中に『破壊願望』があるからではないか」といった観念的なものばかりで、とうとう氏が「あなた方は『精神科医」なのか!」と逆質問する気まずい雰囲気になってしまったことを考えると、「作品中心の質問で良かった」と思っている。但し、最後に「日本の“スーツメーション”(着ぐるみ)特撮をどう思うか」という問いには、まず“スーツメーション”なる言葉が理解されなかったばかりでなく、76年のリメイク版「キングコング」における特撮マン(兼スーツアクター)・リック・ベーカーの演技に対する揶揄まで出てしまって、こればかりは失敗だった。
 
 勿論私だけでなく、もう一人の方やメンバーの子もいくつかの質問をして、一応来日直後の会見は幕を閉じた(なおこの時のインタビュー内容は、会場で配られる冊子に掲載された)。そこで間髪入れず、私はおずおずと色紙を出した。通訳に頼んでその意志を伝えたところ、氏は快くサインに応じてくれた。それを横目で見ていたもう一人の方は「ああ、いいなぁ」と残念そうな、それでいて屈託のない笑顔を見せていた。実はその時、私は色紙をもう一枚持っていたのだが、それを差し出す余裕もなく、自分だけがサインをもらってしまった。本当に心の狭い人間である………(反省) ちなみにその色紙はやはり我が家の家宝になっている。
 
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 最後に私は、氏に自分が当時8ミリフィルムで劇映画を撮っていることを話した。“ダイナメーション”は秒24コマのコマ撮り撮影なだけに、連続体のビデオよりフィルムに拘ることに共感を抱いてもらえると思ったからだ。しかし氏はそのことにはあまり拘りがないらしく、私には「それではこれからもフィルムで撮りなさい。フィルムなら後でビデオにも出来るからね」とだけ語りかけてくれた。ちょっと拍子抜けだったかな?
 
 ちなみに私が最後に8ミリフィルムで映画を撮ったのがこの98年。それから5年のブランクを経て、再び劇映画を撮ったときには、撮影媒体はデジタルカメラノンリニア編集になっていた。これじゃ“キネコ”にするしかないか……
 
 ところで、その時一緒にインタビュアーを務めた方は、翌々年の2000年12月に、世田谷の自宅で一家全員が惨殺という不慮の死を遂げられた宮沢みきおさんである。そのことをメンバーの子から聞かされた時は、息も出来ない位の衝撃に襲われたことを今も思い出す。あの残念そうでありながら明るく屈託のない笑顔、「よい人」を絵に描いたような方だったので、悔しくてならない。あの時自分の余った色紙を差し出してあげられなかったことは、申し訳ない思いと共に私の心のトラウマになっている(その空の色紙は今でも使えずしまってある……)。
 
 それから13年あまりの昨晩、かのハリーハウゼン氏の死去の知らせをネットで知った。本当にショックだ。天国のみきおさん、今頃ハリーハウゼン氏との再会を喜んでるだろうな。今度こそ、色紙を携えて会ってくださいね。私ももうじき参ります。その際には一緒にインタビューの続きをしましょうね。
 
 合掌………