戦争は所詮「泥沼」
下の写真は『男たちの大和』に登場する、戦艦大和館内にある、砲弾を運ぶエレベーターのシーンだ。先月、亡き父のことを書いたが、そこでも触れたように、呉海軍工廠時代、このエレベーターの設計に携わったことが自慢だった父に、出来ればこのシーンを見せてやりたかったものだ。
ところで、現在進行中のロシアによるウクライナへの侵略戦争だが、まさに泥沼の様相を呈している。戦争ってのはどちらにもそれなりの大義名分があるんだろうが、旧ソ連のアフガン侵攻ではモスクワ五輪が西側のボイコットに遭い(その反動で4年後のロス五輪ではルーマニアを除く東側の報復ボイコットがあった)、イラクのクゥエート進行では、最終的にイラク国内が完膚なきまで叩かれ、国家元首が逮捕・死刑の憂き目に遭う等、「いかなる理由でも侵略あるまじき」の世界世論があるわけで、どう転んでんも、ロシアの行為は常軌を逸しているといっていいだろう。
そんな中で見つけたのがこの記事。
上記の記事の中でカズレーザーは、「ウクライナは一般市民の方でも武装されたりしてるってことで、プーチン大統領としてはそういった人も戦闘員であり、文民ではないということで使用をためらわないっていう判断なんだと思います」との見解を示しているが、それで思い出すのは、件の父親に日中戦争従軍時の思い出を聞かされた時の話だ。
話題が南京事件に及んだ時、「当時は民兵が多く、外見だけでは民間人か軍人か判断できなかった」と言っていた。今思えば、それが南京のあの事態を招いたと暗に語っていた内容だったのかもしれない。ただ父親の従軍は昭和16年3月で、南京事件の4年後なんで、恐らく従軍中に聞いた話の受け売りだったと思われるが、この「軍人か民間人か区別がつかない」というのは、攻撃を仕掛け得る側から言えば極めて都合のいい理由であり、下手をすると原爆使用の正当性にまで及ぶかもしれない。実際、ベトナム戦争では子供に爆弾を仕掛けて自爆により警戒心を解いた米兵を爆殺するベトコンの戦術もあった訳だし、一概に否定できないのも厄介な問題だ。
圧倒的な戦力差に対して、このまま戦争を続けるならば、ウクライナは「国民皆兵」の事態に陥るかもしれない。そしてそれは、ロシアにウクライナ人大虐殺の口実を与えることになる。この悲劇を防ぐには停戦以外にないのだが、それもどうなることか……
最近は「放映のために核武装」とか「憲法改正」「自衛隊を群に格上げ」なんて、まさに“お花畑”の極みのような主張を繰り返す輩がネット上にまたぞろ出てきているが、そもそも近代社会で「侵略」は許されえないだろう? だからフセインは処刑されたんだろう? だったらプーチンも一緒じゃない? まあ、処刑云々は別としても「侵略」がまかり通っている現状を、経済制裁とはいいながら世界が指をくわえて傍観しているだけ、ってのはどうも解せない。もっとも「じゃあ、お前が闘って来いよ」なんて言われても困るけどね……