神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

小説を朗読劇で映像化する可能性

 先日、西区民文化センターでReadingNotteの「朗読夜会第八夜 季節のない街朗読公演上映会」を観賞(観劇?)。これは、拙作に役者やナレーターとして何度も参加いただいてきた日高さんのお誘いによるものだったが、この舞台撮影にはIPFのメンバーも深く関わっている(私は運搬係(;^_^A)こともあり、非常に親近感を持って参加させていただいた。

 


 さて、上記にもある通り、今回は舞台ではなく、その様子を撮影し編集を加えた“上映会”。今なお猛威を振るう新型コロナ禍によって公演中止の憂き目に遭ったこの舞台を、実際に演じたものを撮影した映像によって公開する、という画期的な取り組みだ。題材は山本周五郎の『季節のない街』。このタイトルを見て映画好きの私がピンとくるのは、何といっても黒澤明御大の『どですかでん』。実際、伴淳三郎三波伸介三谷昇平幹二郎と並ぶ往年の広島《東部》高校演劇出身俳優!!)で映像化されたエピソードが朗読劇として描かれていたのは、実に興味深かった。

 

 

 


 全編を通じて(そして原作そのものがそうなんだろうけど)、優しさに包まれた主人公の報われない愛情・行為が主題になっている。その対極にあるのは、そんな主人公の優しさや配慮に気づかない、それくらい“純”な身内の存在である。こちらが観ていてもぞかしい位自己主張が下手な主人公たちの堪える姿に、胸が痛む。中には声なき声によって自らの思いを吐露する主人公もいれば、最後まで徹頭徹尾耐え忍んだまま死んでいく主人公もいる。しかし、皆に共通するのは、その無自覚な身内に対する限りなき無償の愛(アガペの愛)だ。それが切々と感じられるのは、登場人物(演者)のストイックな演技だ。しかも、朗読劇故、そのうちに秘めた思いをストレートに吐露する2面性が描かれる点も特筆べきところかもしれない。特に『嵐を呼ぶ男』の石原裕次郎の役柄のように、どうしても自分の誠意を理解せず狡猾な兄の肩を持つ母に絶望する弟の役や、自由奔放な妻にいくら踏みにじられても顔色一つ変えない夫の役、そして無責任で夢想家な乞食の父を立て必死に生活を支えた挙句に、父の間違った認識を否定できなかったため病死する息子など、観ていてとてもやるせなかった。しかしその弟が夫が息子が、それでも献身的に務める姿に、どこか韓流映画の奥深さ(必ずといっていいほどハッピーエンドは望めないが、その先にもっと違った価値観・愛が存在するような)を感じずにはいられなかった。それもこれも、今回演じた役者陣の迫真の演技があればこそのことだと思う。

 ところで、一応今回の舞台撮影の舞台裏は知っていたものの、正式な形で朗読劇を観賞するのは初めてだったと思う。それで感じたストレートな感想は、「小説を原作にした場合、こちらの手段の方がより効果的ではないか」との感慨だった。現在、小説を原作にした映画・ドラマが量産されているが、小説でいう所の心理描写を若干のモノローグ以外、表情や演技で魅せることになる映画・ドラマと比べ、その内心を朗読という形でストレートに伝えることの出来る朗読劇の方が、より「小説的」のように思えた。勿論我々映画作家(私はアマチュアですが(;^_^A)は、その言葉で説明されたものをいかに映像や演出によって表現することに腐心し、それが映像の醍醐味だったりするんだけれど、同時に無類の本好き(読書家)としては、小説により忠実で小説を読むが如く観賞できる朗読劇(そして朗読劇映像)にも大いに惹かれた。しかも演者が皆衣装を着、そしてセットの中で、内心も吐露しながら演じるわけだから、これは非常に面白いことに気づいた。しかも今回は映像だったから猶更だ。

 今後、今回のような朗読舞台の映像が、新たな「小説の映像化」のジャンルに加わってもいいんじゃないか、って素直に思ってしまった。