神宮寺真琴のつぶやき~TBossのブログ~

ヒロインアクションの考察から、インディーズムービー・劇場映画の話題まで

斉藤由貴の“眼力”~なぜ彼女が「スケバン刑事」足りえたか~

 最近CSで斉藤由貴が主演する2時間サスペンスを立て続けに観た。『スケバン刑事』で初代「麻宮サキ」を演じた頃はまだ10代の娘(そして撮影時はまだ現役の女子高生)だった彼女も、御年53歳を数えるようになったが、時に看護師として、時に介護ヘルパーとして、時に女詐欺師(「サキ」が「サギ(詐欺)」に?!)として、そして警部補(!!)として、相変わらず2時間ドラマなどで主役を張っている。2003年公開の『スケバン刑事コードネーム=麻宮サキ』では、初代を彷彿させる、4代目麻宮サキ松浦亜弥)の母親役を演じたことは、あれから17年が経過したとは言え、未だ記憶に新しい。

 

 そんなわけで、今回のドラマの撮影当時既に30代後半から40にかけての年齢に達していたであろう、斉藤由貴の姿や演技に「麻宮サキ」を探し求めながら“観察”したんだけれど、どうしても今の彼女からかつて初代スケバン刑事だった頃の面影を垣間見ることは出来なかった。勿論、彼女の本来のキャラクターやドラマ撮影時の年齢もあろうが、いくつになっても、そしてどんな役を演じてもかつての「松島ナミ」(『女囚さそり』)や「雪」(『修羅雪姫』を彷彿させる梶芽衣子と比べたら、不思議なくらい斉藤由貴からはスケバンヒロインのオーラは感じられなかった。

 

 その前に、『スケバン刑事』(それも一話完結時代の10話分)を何度も観直していたが、ここでの斉藤由貴はまぎれもなく近年2時間案ドラマなどで活躍する彼女と同じ人なんだけれど、それ故なぜ彼女が昭和60年代にあそこまで見事に麻宮サキを演じ切ったのか、甚だ疑問に感じてしまった。あんなあどけない顔でちょっと眠たそうな瞼をして、一つ間違えば“ブリっ子”のような彼女が、演技上無理矢理とはいえ、なぜ今観ても堂々と啖呵を切る芝居が当時できて、それが視聴者である我々にそこまで素直に受け入れられたのか、と。

 

 そこで思い立ったのが、『スケバン刑事』における彼女の眼力だった。特に悪党を前に啖呵を切るとき、斉藤由貴は決まって目をカッと見開いて、その眼力で相手を(そして視聴者である我々を)威嚇していた。あの愛くるしい容姿と華奢な身体でありながら、誰もが一目置く名うてのスケバンであることを納得させるためには、あの狂気さえもはらんだように見える眼球が飛び出さんばかりの瞳の演技が必要だったのではないか。それと共に、先程「眠たそうな」と形容した瞼も、実は悪党に口上を垂れる際の醒めた視線として、これまた観る者に威圧感を与えていた(特にきの口上は決まってほぼカメラ目線だったし)。そんな彼女の醒めた視線も、彼女をスケバン刑事足らしめるのに大きな役割を担っていたように思えて仕方がない。更に言えば、あの口上を垂れる際の巻き舌を伴った言い回しも、彼女の甲高い声にドスを効かせるのに効果的だったのは言うまでもない。

 

 

 

 最近の彼女も、犯人に凄んだり、深く悩んだりする演技をすることは多々あるが、あの「見開いた目」と「醒めた視線」という“眼力”を魅せることはない。彼女がそれを披露したのは、『スケバン刑事』の時だけだったようだ。だから、あの時の斉藤由貴は、どんな演技指導を受けたのか……否、どんな精神状態だったのかわからないが、少なくともあの数か月の撮影期間だけ、「麻宮サキ」という存在だったように思う。そしてその後の南野陽子浅香唯も、そして五十嵐いづみや仙道敦子中山美穂といった当時の高校生ヒロインも、あの時の斉藤由貴のエキセントリックな演技の域には届かなかったんではないか。もしそれに匹敵するヒロインを探すならば、それこそ『禁じられたマリコ』での岡田有希子ぐらいしかいないのではなかろうか。

 

 

 そんな『スケバン刑事』の「白い炎」が流れるエンディング映像に、一瞬本来の斉藤由貴の姿を垣間見られるカットがある。きっとこの姿こそ彼女の“素”なんだろうな……